その時、熊野は動いた⑦~熊野詣 1
熊野詣(1)
いつだったかぼんやりとテレビをみていたら、マイホーム訪問かなにかの番組に富司純子さんが出ていて、
「うちの子供たちがほたえて、もう大変…」と、しゃべっていたので、やはりふとしたはずみにお国訛りが出るんだな、とほほえましく思った。
スクリーンのなかで小太刀を閃かせて博徒を斬りまくったあの緋牡お竜さんは、子供のころ疎開かなにかで御坊で暮らしていたらしく、そのころ使っていた紀州弁が無意識で口に出た、ということだ。騒える(ほたえる)という言葉は、いまでも新宮の若い人たも日常的に使っているのだろうか。
人一倍ほたえた私たちの少年時代には、「そばえる」とか「そばえんな」という言葉もよく使った。
この「そばえ」については私も日照雨(そばえ)が動詞化したものとばかり思っていたが、「岩波古語辞典』の「そばえ」を引いてみると、解釈の「一」として『「そばへ」[戯へ]イソバヒ(戯)の転。ふざける。じゃれる』とあり、「二」として『日照り雨が降る』とあった。
また私たちの日常語のひとつだった「てごたらあかんで」の「てんご」は『「テンガウの訛」として「いたずら。冗談」となっている。「てんがう」は『[転合][転業]とも書き、ふざけること、いたずら、戯れ』をさす古い言葉だが、私たちは新宮で大和言葉ともいえる古語を日常的に使っていたわけだ。
やはり、日常語のひとつだった女性をさす「ねしょ」も、王朝物の映画やドラマに出てくる「にょしょう」が訛ったものだろう。
以上、上流熊野弁の権威である城かず坊先生のご参考までに思いつくまま書いてみたが、それだけ熊野の地は昔からみやこの言葉との接触が深かったということだ。熊野三山参拝のためにはるばる京からやってくる女院や公卿、それに随従の人びとと熊野の地下人とがさまざまなかたちでコンタクトを持ったに違いない。