その時、熊野は動いた②~丹鶴姫の怨念 2

丹鶴姫の怨念2
私が住んでいる府中市には、大国魂神社の参道でもあるけやき並木があって、けやきの中には天然記念物に指定された樹齢数百年という大木も混じっている。

そのけやき並木のかたわらに、大国魂神社を守るかのように建っているのが、前回ちらっと触れた八幡太郎義家の銅像だ。丹鶴姫(たんかくひめ)の四代前に当たる源氏の総帥が、大国魂神社にけやき並木を寄進して奥州征伐(1062年の前九年の役)の戦勝を祈ったということで、銅像になった義家はなかなか凛々しい顔をしている。

大国魂神社はオオクニヌシノミコトを主神とする古い神社で、境内にさまざまな木が植えられていて目を楽しませてくれるのに、なぜか松の木は一本もない。
伝承によれば、この地に帰ってきたオオクニヌシノミコトが、
「わしは待つのがきらいじゃ」
と、のたもうて、松の木を徹底的に嫌ったという。
出雲大社に祀られている中央系の神オオクニヌシノミコトが、新たに部族神として府中の地に帰ってきたときに、ほんとにそんな駄洒落を言ったのかどうかは不問に処すとして、この地はもとはといえば物部系の根拠地だったらしい。
熊野の神は物部系であり、松は熊野では午王護符の印材として使われている木で、熊野別当は家印としても松材を用いていた。松材は火力が強く、タタラ製鉄には欠かすことができない木だ。そういった関係から物部色が濃い土地には松の伝承が残っている場合が多いのだという。

■大国魂神社の「からす団扇」■

大国魂神社では毎年7月20日にすもも祭が行われ、この日、一年に一度だけ黒い鴉が羽をひろげて翔んでいるようすを描いた「からす団扇」が参拝者に頒けられる。

鴉といえば熊野だが、古い物部系の熊野の神を嫌ったオオクニヌシノミコトが「松はきらいじゃ」と境内から松の木を排除したところで、熊野との縁はなかなか切ることができず、いまだに「からす団扇」に名残があるということかもしれない。

郷土史家(*新中OB。太地出身)の澤村経夫さんの「熊野の謎と伝説」でも、
「大国魂神社の主神は、大国主命である。出雲の国造の統治権を継承する火鑽(ヒキ)りの神事は、大国主命を祀っている出雲大社ではおこなわれず、不思議なことに島根県八束郡八雲町にある熊野神社でおこなわれた。出雲族の最高神は、大国主命ではなく、熊野大神であった。大国魂神社の鴉団扇と、熊野三山の鴉のいずれも熊野大神に源を発することに気づかれるだろう」と、熊野との関連について触れている。

■新宮と「鶴」の深い関係■

ところで丹鶴姫のことだが、速玉神社にあった修験の梅本庵に伝わる古文献「熊野年代記」では、丹鶴姫ではなく「田鶴姫」と呼んでいる。

前回にも引用させてもらった下村巳六さんの「熊野の伝承と謎」によれば、「崇徳大治五庚戌(1130年)鶴原尼丹鶴山に東仙寺建立」とあり丹鶴姫は田鶴姫のほかに「鶴原尼」と呼ばれていたことがわかる。

大治五年というと、白河法皇が崩じて鳥羽上皇が院政をしいた翌年で、為義の郎党が人を辱めて勅勘をこうむった年だ。白河法皇、鳥羽上皇が熊野に御幸したのは、その五年前の天治二年(1125年)になる。

鶴の古語は「多豆(たづ)」で「たづはら」(田鶴原)といえば、新宮市内に町名となって残っているし、幕末、新宮藩主・水野忠央の妹で、第十二代将軍家慶(いえよし)の側室となったお琴の方が産んだ男児の名は、忠央の命名なのか、その名も「田鶴若」といった。忠央自身も「鶴峰」という号をもっていたが、とにかく新宮と「鶴」との関係は深いのだ。
「熊野の伝承と謎」には、丹鶴姫の墓所から出土した松鶴鏡の写真が載っているが、そこにはたしかにくびを伸ばした鶴が写っている。

■源平のパワーゲーム。丹鶴姫の活躍■

鶴で連想するのは、瀬戸内海のジャンヌ・ダルクといわれる大三島の鶴姫だ。

瀬戸内海の大三島にある大山祇神社の大祝家・兵庫助安用(やすもち)の娘だった鶴姫は、来島海峡を守る河野水軍に身をおき、天文十年(1541年)六月、大内水軍を相手に早舟を操り、みずから大薙刀をふりかざして奮戦した。ときに鶴姫、十六歳。そのさい着用したという紺糸威しの胴丸は、大三島の神社国宝館にあって国の重文に指定されている。胸のあたりがふくらみ、腰がきゅっとくびれた女鎧で、同じ水軍の娘でもわが丹鶴姫には鶴姫のような伝説が伝わっていないのが惜しい。

そのかわり、夫の湛快の死後、十九代別当行載(鳥居法眼)のもとに再嫁した丹鶴姫は、二十二代別当行快や行忠、長詮を産み、鳥居禅尼と称して、源平のパワーゲームに揺れる新宮にあって強力な熊野水軍を源氏方につけるのに大きな役割を果たした。

丹鶴姫とともに新宮の地で育った実弟の十郎行家は、源三位頼政が平家打倒の兵をあげた際、以仁王(もちひとおう)の令旨を諸国に伝え平家を滅ぼすきっかけをつくった。

のち行家は頼朝と不仲になって討たれてしまうが、丹鶴姫は弟の留守中、田辺に本拠を構える子の湛増に源氏に味方するようにくどいたと思われる。

湛増は丹鶴姫が先夫の湛快との間にもうけた子で、口熊野と呼ばれた田辺に湛快が熊野三山の拠点として熊野三所権現を勧請し、まだ若かった湛増を権別当として置いた。
(この項続く)

八咫烏

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