その時、熊野は動いた①~丹鶴姫の怨念 1
丹鶴姫の怨念
熊野川べりの城山(新宮)には、いまでも頑丈な石組みが残っていて、かつて白亜三層の天守と多聞櫓を持っていたという丹鶴城の偉容をしのばせる。
いまは城にあがる道がすっかり整備されて登りやすくなったが、私が小学生の頃(千穂小学校)は道らしい道もなく、崩れかけた石垣の上の平地は雑草に覆われていた。
沖見城ともいわれたこの丹鶴城には、日暮れになると美しいもののけ姫が出るという話が伝えられていて、私などは度胸試しのためにわざと夕方、陽が沈むころに登ったものだった。
作家佐藤春夫さんも「わんぱく時代」のなかで、丹鶴城のもののけ姫に触れているが、城の天守台跡あたりの祠から、緋のはかまに十二単衣を着こなした姫が出てきて檜扇で招くという話がまことしやかに伝えられていた。
■丹鶴姫と黒兎■
あでやかな衣装をまとった丹鶴姫には、日が暮れてから外に出てくる黒い兎がついていて、その黒兎に道を横切られる子はほどなく死んで丹鶴姫のそばに行かねばならぬ、という言い伝えもあった。
黒兎は、もののけ姫の忠実な使わしめなのだ。
蘭沢(いのぞ)に棲む大蛇に魅入られた美少女オイノが森の奥に誘い込まれて底なしの蛇の穴に飲み込まれたという伝説は、子供のころよく聞かされたが、丹鶴姫の場合は子供がつい誘いに乗りそうな黒兎というところがいい。
私が古老から聞かされたのは、黒兎を従えた丹鶴姫の祠は本丸跡の東南側、薄暗い小路をへだてた小さな丘にあり、その丘の茂みのなかに古びた五輪塔が残っていたという話だった。
しかし、天守台跡や二ノ丸の窪地にところどころにえぐられたような穴があったが、あちこち歩き回っても私には祠や五輪塔は見つけることができなかった。
速玉神社の「神宝館」には、熊野詣でにやってきた中世の女人たちが寄進した金銀箔を張った檜扇があるが、十二単衣を着た丹鶴姫も、あんな檜扇で人をさし招いたのだろうか。それにしても、黒兎を使って祠に子供を呼び込むというのは尋常ではない。
茂みのなかでひっそりと朽ち果てつつある古い祠、それに使わしめの黒兎には、鳥羽上皇が熊野詣をしたころ、殿上人たちの間ではやった「穴黒々の黒主かな」という舞い囃し言葉を連想させるものがある。
これは、乱舞の席で囃されてもなかなか芸をしない者に対してしびれを切らした一座の者が、「けしからんぞ」と、囃した囃子歌だというが、公卿や女官たちと接触があった丹鶴姫も、あるいはこの囃子歌をうたっていたかもしれない。
■源義家と「立田の女房」との出会い■
八幡太郎義家といえば、武家の棟梁であり、源氏の総帥でもあったが、その孫にあたる源氏の嫡流が源為義だ。
「吾妻鏡」によれば、この為義が院の熊野御幸に検非違使として随行したさい、第一五代熊野別当長快の娘で「熊野の女房」とか「立田の女房」とか呼ばれていた娘と結ばれた。彼女は生地の新宮で一女一男を産んだ。女児が丹鶴姫で、為義の十男になる男児が十郎義盛、後の行家だ。
しかし、この「立田の女房」は、熊野別当長快の娘ではなく、熊野三山の巫女だったのではないか、という説をたてているのが郷土史家の下村巳六さんで、その著書「熊野の伝承と謎」のなかで、「私は疑わしいと思う。源為義の子、丹鶴姫や行家などを産んだために、別当の養女となったのかもしれない。その素性は巫女だったのではなかろうか、とも思う。平清盛と厳島神社の巫女と関係が深く、それがあの有名な平家納経の素因となったといわれているが、そうしたことは当時ありえたことだったからである」と書いている。
■「立田」は「たたら」?
「立田」は「たたら」と音が似通うし、「丹」は古代、朱の原料となる丹ではなく「丹青」として砂鉄を指したのだそうだが、丹鶴姫の丹はその血筋が採鉄にかかわるもの、すなわち「たたら筋」ではないか、というのが下村さんの推論だ。
そういえば神武天皇の皇后である媛踏鞴五十鈴姫命(ヒメタタライスズヒメノミコト)も「たたら筋」という説がある。「古事記」では比売多多良伊須気余里比売(ヒメタタライスケヨリヒメ)となっているが、どっちにしてもタタラヒメなのに変わりはない。
「立田の女房」が為義の夜の伽の相手となって懐妊し、別当の養女となったかどうかは別として、成人したその娘丹鶴姫は第一八代熊野別当湛快の妻となって男児を産んだ。それが後に第二一代別当となる湛増だ。
天皇、あるいは上皇という旗印のもとに源平いずれかの武家勢力を味方につけて権力の座につこうとする公卿たちの画策、そのおどろおどろしいパワーゲームに踊らされたのが、湛快・湛増父子であり、丹鶴姫だった。
(この項つづく)
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この記事は、新宮出身の作家新宮正春さんの「歴史のなかの熊野」というエッセイの中から一部を紹介しているものです。掲載については、もともと森本剛史君がかつて発行していたメールマガジン「熊野エクスプレス」に掲載しようということで新宮正春さんご本人から了解を得たものです。当時の、新宮正春さんのコメントが残っています。
「小生、ただいま書き下ろし中の小説の締め切りがとっくに過ぎているのに、ついつい新宮の歴史雑学について書くことに夢中になっててしまい、ワープロ打ちはもっぱらそればかりという状況です。編集者からの電話におびえる逃亡生活スリルを楽しみつつ、原稿料にならない原稿を書くという事が実に愉快です。
中世の丹鶴姫あたりからはじめて、堀内氏善の時代、その後の幕藩体制の時代と、新宮とその周辺のあれこれをかき集めて時系列で整理し直してみると、ゆうに単行本一冊の分量になってしまいました。むろん、これには徐福のことはいっさい抜きです。
ご要望あらば、どのパートでも喜んで熊野エクスプレス誌上に提供いたします。」
八咫烏