新宮正春・熊エプ投稿文 4~新宮八景

歴史小説作家で元報知新聞巨人軍キャップの新宮正春さんが熊野エクスプレスに寄せた「新宮八景」についての投稿があります。かつての熊エプ読者はとうにご存知のことですが、非常に中身の濃い内容で埋もれさせておくのはもったいないと思い、ここに紹介したいと思います。
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熊エプの埋め草の原稿、あるいは企画になりそうな材料、思いつくままに送ります。それと、オリベッティにいた今西さんのメール見ていて、昔、同社のバレンタインという新製品が出たさい、そのCMソングを作詞して真っ赤なタイプライターをもらったことを思い出しました。この件の詳細についてはまた後日。

かつて新宮には、近江八景にちなんだ「新宮八景」があった。それは次の八景だ。

王子ヶ浜の青嵐、鮒田富士の暮雪、鴻田の落雁、神倉山の秋月、乙基の夕照、瑞泉寺の晩鐘、臥竜山の夜雨、蓬莱の帰帆です。

現在の新宮には、臥竜山がなくなり石井伯亭が描いたような池田港に船がもやうのどかな風景も見られなくなった。昭和初期まであった新宮八景のなかで残っているのは、ひとつかふたつというのも寂しいかぎりだが、平成のミレニアムを機に「新・新宮八景」を考えるのも、スローな時代に向いているかもしれない。メールによる熊エプ選定の新八景、試みる価値があるのでは。

また、無味乾燥な町名が横行する時代に、味のある旧町名を復活しようという自治体が増えてきているが、華やかな文化が花ひらいていた新宮にも、かつては趣きのある町名がたくさんあった。その一部は次の通り。

ハレンカ町(水野忠央の隠居所があったところ。忠央が命名)

八咫鴉町(やたがらすちょう)

玉ノ江町

馬町(伝馬所があり、旅籠が集まっていた)

正政町(速玉神社の長田正政所の屋敷跡?)

横町(ここには竜鼓橋という名の石橋があった)

雑賀町(雑賀衆とかかわりがある?)

道下町(堂下町とも書いた)

別当屋敷(いうまでもなく熊野別当の屋敷跡)

薬師町

●新・新宮八景

よみがえり(黄泉還り)の地として多くの人びとを惹きつけてきた熊野。その熊野と都とを結んでいた熊野古道がこのたび世界遺産に指定される可能性が高くなった。

海青し、山青し、と謳われた南国の自然とこまやかな人情。スローな生き方が再認識されはじめた現代ニッポンにあって、熊野こそ最後に残された「心の原郷」といえるかもしれない。

そんな熊野のよさ、この地方独特の豊かな景観をのちのちまで語り伝えるためにも、またはるばる東京や大阪から訪れる観光客の期待にこたえるためにも、新しいランドマーク、熊野古道周辺の新しい熊野八景の選定が急がれる。

1、那智の滝と熊野那智大社・青岸渡寺

2、速玉大社

3、神倉山

4、徐福の墓

5、丹鶴城址

6、浮島の森

7、熊野本宮大社

8、瀞八丁

といったところがその有力候補となる。もともと「熊野」は三重県南部も含んでいたから、行政区分にこだわらなければ、熊野市の鬼が城、花の窟なども入ってくる。

また、串本の無量寺(長沢芦雪の絵で有名)や下里・大泰寺の薬師如来坐像といった文化財、あるいは串本の橋杭岩、古座川の一枚岩の奇観もそのユニークさで候補にあげられるだろう。、

そこで小手調べというわけではないが、熊野八景の選定に先立って、わが熊野エクスプレスの呼びかけで「新・新宮八景」を公募してはどうだろうか。つまり、範囲を新宮という土地にしぼった21世紀の新宮八景をネット上の意見交換によって選ぶのだ。

かつて大正から昭和初期にかけて、地元文化人によって選定された「新宮八景」が存在した。それは次のようなものだった。

1、王子ヶ浜の青嵐

2、鮒田富士の暮雪

3、鴻田の落雁

4、神倉山の秋月

5、乙基の夕照

6、瑞泉寺の晩鐘

7、臥竜山の夜雨

8、蓬莱の帰帆

このなかには、臥竜山のようにすでに存在そのものがなくなったものも含まれている。新宮河口が船の往来でにぎわった風景も、いまはもう見ることができない。しかし、戦災と南海道地震による大火によってまちそのものが大きく変貌した新宮に、新しい名物となる八景がないのはなんとも寂しいではないか。

そこで、新・新宮八景の一例として、わたし(新宮)が勝手に選んだ八つの名所・名物をここで披露したい。

1、高野坂の朝凪(海を望む唯一の熊野古道。かつて荒坂と呼ばれた場所から見る朝の熊野灘)

2、丹鶴城の落日(頼朝・義経兄弟の叔母・丹鶴姫がいた城跡には、むかし薬師如来が祭られていた。水野家が城主となったころには城の西側の水の手に炭納屋が並んでいた)

3、神倉山の月明(鎌倉積みの五三八段のけわしい石段。ごとびき岩と天の磐盾のモデルとされる大岩壁に映える月明かり)

4、乙基河原の鴉(かつて本宮へとさかのぼる熊野詣の川のルートだった乙基の渡し。その河原を群舞する熊野の神鳥)

5、徐福の墓と天台烏薬(ここが終焉の地という言い伝えがある秦の方士・徐福。不老不死の薬をさがす旅の終わり)

6、御船島の涙雨(祭りのときは勇壮な諸手船が島を競漕する御船島は、大石ドクトルたちがえび獲りに興じた場所でもある。この船遊びが天皇暗殺の謀議とされ、ドクトルは絞首台の露と消えた)

7、速玉のナギの葉擦れ(平重盛の手植えといわれるナギの大樹。かつて平家の武者たちが鎧の袖に挿したナギの葉に源平の昔をしのぶ)

8、浮島の森のミズゴケ(泥炭状の泥層上に浮かぶ寒暖両性の植物群落)

ほかにも、新宮には速玉大社神宝館のきらびやかな国宝類以外に由緒のある文化財が点在する。

妙心寺の托鉢用木鉢(法燈国師が神倉山にのぼったさい寄進したという言い伝えがある)

寄木造りの聖徳太子立像(宗応寺にあって、上半身裸かの合掌した珍しい木像)

本広寺の書写妙法蓮華経印塔(新宮藩士で千家茶道の大家。川上不白が建立)といった文化財だ。

冒頭の高野坂については、文化五年(一八〇八)四月、紀伊続風土記の新撰にあたって牟婁郡新宮領佐野組が書き上げた「石垣文書」に、「高野(カウヤ)ノ坂。古名荒坂とも申し候。

在所真中より六丁二十間丑の方。(中略)此所に聖護院様御入峰之節、御小休ミの所。畑中に御座候。

少し上に尾長溝明神之森御座候」という記述がある。これを案内板にでもしるして観光客のためのガイダンスとしてもいい。

八景が世人に認知されるには、たくみなキャッチコピーだけではなく、人をひきつける絵も必要ということかもしれない。さいわい熊エプには、優秀なカメラマンがそろっている。選定が煮詰まったころに、斬新なアングルでとらえた新宮八景が見る人のハートを熱くすることになるかも。
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(2004年2月3日発行「熊野エクスプレス24号」より転載)

新宮八景の提唱者である新宮正春さん、熊エプ編集長の森本剛史君、今は天国で二人で話し合っているかもしれませんね。熊野古道が世界遺産に登録されて久しいですが、二人の遺志を継いでくれる若手が出てきてくれることを望むばかりです。

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