その時、熊野は動いた⑨~幻ではなかった新宮県

慶長4年(明治元年=1868)1月、王政復古により明治政府が成立したとき、紀州藩付家老で「新宮藩」の第十代藩主だった水野大炊頭忠幹(みずのおおいのかみただもと)が藩屏(はんぺい、藩の重鎮)に列せられ、紀州本藩からはじめて独立した藩が誕生しました。

付家老の地位に不満を抱いていた尾張藩の安藤家、水戸藩の竹越家ら五家もこのとき同時に諸侯に列することになりました。ただし、この年の9月には年号も「明治」と改元して徳川幕府は崩壊してしまいます。思うに、付家老たちの昇格は、御三家から領地を取り上げるために新政府が企んだ懐柔策のひとつだったのでしょう。

そして、明治2年(1869)6月、諸藩がいっせいに版籍奉還したため水野忠幹もこれにならったわけです。つまり、本藩から独立した「新宮藩」はわずか1年半しか続かなかったことになります。

さらに明治4年(1871)7月14日、廃藩置県が実施されて日本は三府七十二県となり、府知事、県令が置かれました。和歌山、田辺、新宮の三藩はそれぞれ県となったわけで、ここにめでたく「新宮県」が誕生します。

ところが、その年の11月22日、せっかく日の目を見た新宮県と田辺県は「和歌山県」に吸収合併され、新宮県は廃止の憂き目みます。和歌山県に合併されるまでわずか半年のはかない「新宮県」だったということです。

その頃、熊野川の対岸から東側(現在の三重県南牟婁郡以東)や北牟婁郡、あるいは旧伊勢国の多気郡、渡会郡、一志郡、飯野郡、飯高郡の村々は「渡会県」に編入されていて、これは「渡会県」という名称でした。廃藩置県の際、伊勢国の安芸郡(あげぐん)、三重郡、川曲郡の村々は「安濃津県」に、大和国吉野郡の三カ所は「五条県」にそれぞれ編入されています。

新宮の丹鶴城本丸、二の丸などが取り崩されたのは明治8年(1875)のことですが、明治11年(1878)7月22日、郡区市町村編成法の設定実施で、在来の在勤所、区役所を廃止して新たに郡役所、戸長役場が置かれることになり、仲ノ町の旧小学伝習所に東牟婁郡役所が設けられました。

初代郡長には県の勧業御用係だった吉田貢氏が任命されましたが、この吉田氏は慶応2年(1866)の長州戦争の際、水野藩の第二番小隊伍長として、芸州方面に出陣、戦場を駆け回った旧藩士でした。

郡の管轄地域は新宮の二十五町村のほかに郡部百六十五村六浦で、これを四十七戸長役場に分割し、郡役所は明治12年3月から業務を開始しますが、県令が任命した初代新宮戸長も旧藩士だった鈴木孫八郎氏です。この鈴木氏は旧藩で柔術師範をつとめ、仲ノ町で柔術道場を開いていた人です。

旧新宮藩には丹鶴流剣法の使い手である強矢武之助という人もいて、その父の良助も九代藩主水野忠央の剣術師範をつとめていました。武之助は気合いをかけて相手の体を三間ぐらい飛ばしたといわれ、背中を叩かれてばったり倒れて死んだ者もいたとかで、鈴木戸長はよくその想い出話をしたそうです。長身で身が軽く、実力は紀州藩随一といわれた武之助の籠手技はあまりに強力なために封じ手とされ、「強矢の籠手」として藩内に鳴り響いたといわれています。

明治15年(1882)11月、政府は町村自治の方針をとり、戸長も知事の任命ではなく公選によることとなりました。「新宮町」の戸長には元収税属の津田長四郎氏が就任しました。新宮町成立当時の戸数は2302戸、人口は9648人だったそうです。

(余談ですが、九代藩主水野忠央の孫・水野忠宣中尉は明治35年の八甲田山死の雪中行軍で戦死しました。陸軍士官学校卒で、赴任したのが弘前師団だったために、この悲劇に遭遇しました。享年26歳。新宮の水野家代々のお墓群の、入ってすぐ右手にこの忠宣中尉の墓もあります。新田次郎さんが書いた「八甲田山」という小説でも、映画でも水野中尉らしい人物は登場していません。新田さんの小説のネタになった生存者の手記はどうあれ、水野忠宣中尉の遭難死が歴史上の事実なのは動かしようがありません)

(2003年2月25日発行「熊野エクスプレス7号より転載」

 

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