その時、熊野は動いた⑤~新宮十郎行家 2
新宮十郎行家 (2)
新宮で生まれ育った行家が天下の争乱のまっただなかに乗り出すきっかけとなったのは、同じ源氏の源頼政とのコネだった。行家のほうから売りこんでいったのか、それとも思い上がった平家に反旗をひるがえした頼政が、
「天照大神のお告げじゃ」
と、いって熊野から行家を呼んで八条院蔵人に推したのかはさだかではないが、頼政が目をつけたのは行家の弁舌の達者さだったのは間違いない。
八条院というのは、鳥羽天皇と美福門院得子の皇女だった章子内親王のことで、以仁王を猶子にしていた。
源平争乱の黒幕となる後白河院は、この章子の異母兄にあたる。「平家を倒せ!」という以仁王の令旨(命令書)を伝達する使者が蔵人職だ。任官した直後に旧名の「義盛」から「行家」に改名したのは、熊野先達の山伏姿で諸国をまわるさい、源氏風の「義」がついているよりも新宮にいる熊野別当第一九代の行範とのかかわりを強調する「行」がついているほうが通りがよかったからだろう。
■源平合戦の中の行家■
以仁王の令旨を携えた行家は、治承四年(1180)四月二八日に都を出て、近江、美濃、尾張と触れまわり、五月一日、鎌倉の北条館に到着した。
令旨を受け取った頼朝は、水干の装束をつけ、男山八幡宮に向かって遥拝してから目を通したという。令旨は、清盛の圧制のもと、いかに国が疲弊し、王威が衰退しているかを訴えるとともに、仏法破滅を憂えて、
「天道の助けを仰ぎ、帝王・三宝・神明の冥感があれば、なんぞ四岳合力志なからんや」
と、高らかに宣言し、
「源家の人、藤氏の人、三道諸国の武士」に決起をうながしたものだった。
頼朝に令旨を渡す役をおえた行家は、そのあと常陸にいる兄の信太三郎義憲に会いに行き、さらに甥の木曾義仲に会うため信濃へと向かった。歴史にIFはないというが、もし行家が令旨を携えて諸国を飛び回らなかったら、源平のパワーバランスはかなり違ったものとなっていただろう。新宮に生まれ育った行家こそ、源頼朝が鎌倉に武家政権を打ち立てるきっかけをつくった影のキーパーソンだったのだ。
(この項つづく)