その時、熊野は動いた⑥~新宮十郎行家 3

新宮十郎行家 (3)

丹鶴姫を姉にもつ新宮産まれの十郎行家は、田辺にいる甥の湛増とは仲がよくなかった。

別当家につながるとはいえ腹違いの行家が以仁王の令旨を携えて諸国をかけずりまわって決起をうながしていることは、平家寄りだった堪増には苦々しいものと映った。堪増はこの件を平家に密告し、その結果、以仁王は囚われの身となる。皇子はその名も「源以仁」と変えられ、遠流されることに決まる。のちに以仁王は、逃亡先の三井寺からさらに興福寺はと向かう途中、平家の追手につかまり、宇治平等院で自害した。行家に令旨を託した源頼政も、子の仲綱、兼綱、仲家とともに討ち死にした。仲家は頼政のところに養子に入っていた木曾義仲の兄である。

翌年、行家は三河・尾張の武士をかき集め、墨股川で重衡・維盛の平家の軍勢と戦ったが、合戦下手の行家はたちまち惨敗を喫してしまった。その後、義仲が京を攻め、平家を都落ちさせたが、行家はその義仲の後見役を買ってでて官位を思いどおりにし、領国を勝手により好みしはじめる。それを聞いた頼朝は、急いで追討の院宣をいただきたいと申し入れた。

『平家物語』には、征夷将軍の官宣旨を届けた中原康定に向かって頼朝がいった言葉として、

「義仲、行家、己が高名がを(顔)に恩恵に預かり、剰(あまつ)へ両人共に国を嫌ひ申し候ふなる条、返す返す奇怪に候ふ」

これは平家追討の賞としてはじめ義仲には左馬頭・越後国が与えられ、行家は備後守になされたが、両人が嫌ったため義仲には伊予国が与えられ、行家は備前守になされたことを指している。

一方、行家と義仲の間もおかしくなってくる。

後白河法皇に自分の悪口を吹き込んでいるといううわさを聞いた義仲は、昼夜兼行で備中から都に引き返し、あわてた行家は丹波路を下って播磨へと逃げまわった。

播磨の室山には平家の二万余の軍勢が1000艘もの船で陣を張っていた。

そこへ行家の兵500騎が攻撃を仕掛けた。だが、待ち構えていた平家の大軍に囲まれ、行家は危なく命を落とすところだった。からくも播磨の高砂から船に乗って和泉に逃げ、そこから河内を越えて金剛山麓の長野城にこもった。

結局は義仲も討たれてしまい、平家が滅亡したあとの行家は今度は反頼朝の中心となって義経と結び、頼朝追討の宣旨をえて挙兵した。黒幕はいうまでもなく後白河法皇だった。激怒した頼朝は、行家追討を当の義経に命じるつもりだったが、義経は病いと称して使者の梶原景季に会わなかった。

文治元年(1185)、義経が法皇から検非違使尉(現在の警察庁長官にあたる)に任官されたことを知った頼朝は、土佐坊昌俊を暗殺者に仕立てて義経を狙ったが、これは失敗に終わった。その年の10月29日、鎌倉を出て黄瀬川に逗留していた頼朝の耳に、義経が九州諸国の惣地頭に、行家が四国の惣地頭に任命されたというニュースが入ってきた。

頼朝の大軍が京へとめざした一一月三日、義経と行家の一行は摂津の大物浦から九州へ船で脱出しようとしたが、突風により船が転覆してしまった。

ようやく浜にあがった行家は、義経とともに大物浦から吉野に抜け大峰~多武~十津川への逃亡の旅をつづけた。行家と別れた義経は、その後、延暦寺や興福寺、鞍馬寺などに隠れ住み、最後は北陸の加賀方面から奥州平泉の藤原秀衝の元に身を寄せた。行家は翌年の五月、和泉国の日向権守清実の隠れ家に潜伏しているところを、追手の平時定、常陸坊昌明らによって突き止められてしまった。

八木の小屋に隠れていた行家は、最後の最後になって果敢に闘いついに力つきて捕えられた。叡山の僧でもあった常陸坊昌明とのすさまじい格闘のもようは『平家物語』の「第六末蔵人行家被搦事」に活写されている。

兜に腹巻、両手に籠手をはめ、三尺五寸の太刀を構えた常陸坊昌命(明)は、直垂小袴で右手に三尺一寸の太刀、左手に鍔の欠けた黄金造りの小太刀を持った行家と対峙する。馬で小屋に乗りつけた昌明は、行家をみて馬からおり、徒歩打物のまさに一騎打ちを展開した。昌明が太刀を諸手打ちに打てば、行家は右手に持った太刀で受けて、左手の小太刀で突いた。

最後には「太刀と太刀とが切組」み、組み討ちとなるが、すさまじい格闘により、双方の刃こぼれが四二箇所という激しい打物戦となった。子の光家も捕えられたが、行家は和泉の赤井河原で斬られ、首は五月二五日、鎌倉に送られた。

行方をくらましていた行家が処刑されたニュースを聞いた公卿たちは「天下の運報いまだ尽きず、悦ぶべし、悦ぶべし」(『玉葉』文治二年五月一五日条)と喜んだ。かつてその公卿たちは、源義仲を決起させ、ついで源氏の棟梁である源頼朝も立たせた行家のことを論功行賞で「頼朝第一、義仲第二、行家第三」(『玉葉』)と高く評価したのだった。

姉の丹鶴姫とともに強力な熊野水軍を源氏の味方に誘いこみ、平家を壇ノ浦で壊滅させるのに力があった行家は、いわば、武家政権を確立した陰の功労者でもあったのに、最後はこのとおり非業の死をとげる運命にあった。

郷土史家の小野芳彦さんによれば、行家の塚は愛知県五井にあるという。

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