成川屋佐兵衛と海の道

平安時代、日本における大消費地といえば、京都しかありませんでした。京都の人口を養うための海港が敦賀であり、北陸沿岸の米その他の物資が海路敦賀に集められました。その後、荷は馬の背に乗せて背後の山塊ひとつを越え琵琶湖で船積みされて湖上を大津まで送られ、再び荷駄で逢坂山を超えて京都まで運ばれました。この経路が上代以来、はるかに下って江戸時代まで変わることがありませんでした。

江戸時代初期、幕府は河村瑞賢に日本海の出羽の米を江戸へ運ぶ航路の研究を命じました。瑞賢は日本海沿岸の諸港を踏査し、馬関(下関)まわりで瀬戸内海、兵庫を経て熊野灘をまわって江戸に至る航路の開発に成功しました。これがいわゆる「北前船」の成立です。

大坂から江戸へ行く太平洋航路の船は、その航路が開かれて以来、「菱垣廻船」と呼ばれる千石、千五百石の大船が走っていました。積み荷の中心は米で、他に上方や四国の商品(醤油、阿波の藍、ろうそく)などで大いに繁盛しました。そのうち、現在の兵庫県灘地方の樽に詰めた酒を専門的に取り扱うために独立して組織されたのが「樽廻船」でした。樽廻船の成立は享保15年(1730)のことでした。

大坂と江戸を行き来する船は途中にある新宮の地、池田港に必ずといってよいほど立ち寄りました。池田港は大坂-江戸航路の中継港のひとつとして大いに発展しました。また、当時、熊野で生産される木炭の8割は備長炭で新宮・池田港から積出され、江戸の大名屋敷や料理屋などで珍重されました。

当時、江戸という世界有数の大都市が、その後背地で商品生産ができないために、大人口をかかえて常に商品に飢えていました。江戸では大小の普請が絶えまなく行われており、材木が常に不足していました。紀州みかんを太平洋航路で江戸に運んで巨万の富をなした紀伊国屋文左衛門も元々は材木商を営み成功していました。

江戸は中期になると都市人口が百万を超え、世界でも数少ない大消費地でになっていました。そのうちの約50万は大名、旗本、およびその家来たちという人口構成で、それらの消費をささえるために商人や職人が集まり、江戸にさえ出ればなんとか食えるという状況でした。

江戸初期は、醤油すらつくれませんでした。やがては紀州人たちが銚子へ行って、江戸の消費のための醤油製造を始め、現地生産が始まったのは1646年のことといわれています。また、これも中期までのことですが、菜種は作付けできてもそこから搾油して菜種油をとるということ産業能力が乏しかったのです。

綿や木綿あるいは紙も同じであり、塩ですら、鋳物釜で煮る赤っぽい塩ができても商品として白さを要求されるものはできませんでした。酒ばかりは関東でも生産できましたが、火山灰地で水質がよくなかったために、旨い酒は上方から運ばざるを得なかったのです。

巨大な胃袋を持った江戸が上方から、贅沢物資でなくごくふつうの日常必需品をも仕入れ続けることで商品経済が成り立っていたというが、江戸期の菱垣廻船や樽廻船という広域流通を発達させたのです。もちろん、贅沢品も上方から下り、そのうち塗り物は海上輸送によりましたが、絹の反物類は陸路が多かったようです。商品の性質上、海水をかぶることが嫌われたのです。こうして、大消費地の需要を賄うために、東海道の陸路を通らず、効率よく大量に運ぶことができる航路が利用されたのです。

そういう時代に泉州堺に生まれた成川屋佐兵衛は、慶長(1596-1615)のころ材木に目をつけ、堀内氏の時代に新宮に来たといわれています。彼の屋敷跡は、現在の紀宝町の元役場の下手にありました。その持ち船の数は圧倒的でした。佐兵衛の死から60年後の宝永8年(1711)の調べでは、成川屋の持ち船は49艘、ほかに客船77艘の廻船があったといわれています。

新宮の城主・浅野忠吉が新宮に移り住んだときも、川奥の代官として佐兵衛に税の取立てを行わせています。城主が水野氏に替わった後も、江戸との取引は活発に行われました。しかし、女性を船に乗せた容疑で投獄され、慶安4年(1651)10月、ついに獄中で病死しました。

成川屋佐兵衛の全盛時代はどんなものだったのか、その一端が次のように紹介されています。まず、速玉大社の裏の相筋にある成林寺(じょうりんじ)を独力で建てました。この寺は以前には広正庵(一名孤松庵または古松庵)と呼ばれ、かなり古くからあったようです。広正寺から成林寺になったときの住職は、涼山和尚という人で、寛文4年(1664)、佐兵衛獄死から14年後に亡くなっています。

また、世界遺産登録間近といわれる阿須賀神社の拝殿も佐兵衛一人の力で建立されています。佐兵衛の墓は、成林寺の相筋丸山にありましたが、大正7年(1918)6月8日に対岸の成川の龍光寺境内の共同墓地に移されました。現在もその場所にあります。成川の地名は成川屋佐兵衛が由来だったのです。

八咫烏

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