北山一揆について

慶長19年(1614)に、北山川流域を中心とした32か村の人たちが3000人も集まり、新宮城を落とすべく一揆を起こしました。これを北山一揆といいます。

一揆の原因にはさまざまな説があります。そのなかでも特に有名なものとして、「新領主に対する熊野土豪の反感」と「大坂方との関係によるもの」の二つが挙げられます。

関ケ原の戦いの後、浅野氏は紀州を治めることになりました。最初の説は、そのときの検地に対する不満を原因と考え、もう一つの説は、豊臣方と徳川方の権力抗争に巻き込まれたというものです。つまり関ケ原の戦いの敗北者が連合して起こした徳川家に対する内乱のようなものであったともいわれています。

この一揆を計画したのは、当時の大坂城の実力者たちであったと思われ、紀州浅野氏が大坂城を攻略するために出かければ、新宮城を守る人数も少なく、大坂から戻るにも時間がかかり、元新宮城主堀内氏善の息子若狭守行朝(新宮行朝)をはじめとする堀内一族や、大峯山の修験者を動かせば一揆は成功するとふんだのであろうといわれています。

このとき新宮の留守を守っていたのが城代家老戸田六左衛門という人でした。戸田は一揆の起こる前の日、成林寺で和尚と碁を打っていたといいます。戸田は一揆に対して十分に準備をしていたのです。一つは「情報を集めるための仕組みを充実させること」、二つ目は「百姓や町人をできるだけ利用すること」、三つめは「土豪の家族を人質に取ること」でした。そのおかげで一揆方が熊野川の対岸に現れることを、尾川村(現熊野市)の庄屋から事前に聞き知っていたのです。

一揆方は鮒田から熊野川を渡るつもりだったのですが、鮒田衆が逃げてしまったために渡ることができず、新宮浅野方の反撃に遭い、敗走しました。浅野方は本宮方面、尾呂志方面、木ノ本口からそれぞれ攻め入り、大沼(現北山村)の舟戸あたりで一揆方と激しい戦いを繰り返し、一揆方は敗れてしまいました。こうやって見てみると、みなさんが社会科の授業で学習している、いわゆる江戸時代の後半などに見られる年貢の減免などを求めた「百姓一揆」とは、少し性格の異なるものだといえるのではないでしょうか。ただ、北山一揆はこの地方で一番多くの処刑者を出した一揆で、その人数は363人にのぼったといわれています。

八咫烏

 

 

 

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