谷中安規

内田百閒に「風船画伯」と呼ばれた流浪の版画家谷中安規は、1897(明治30)年奈良県磯城郡(現・桜井市)、昔から観音信仰で有名な長谷寺近くの参道の商家で生まれています。母を6歳で亡くし、1904(明治37)年頃、父の仕事の関係で朝鮮に渡り18歳まで齟齬します。

その後、東京の私立豊山中学(長谷寺が総本山の真言宗豊山派付属)に学びますが、中退。和歌や詩作の文学少年から、1922(大正11)年刊行の永瀬義郎の「版画を作る人へ」に強い影響を受け、傘の骨を研いで彫刻刀にするなど、独学で木版画を始めます。

長谷川巳之吉の第一書房で居候をしていた頃、日夏耿之介、堀口大学、佐藤春夫、与謝野晶子らを紹介され、交流を持ちます。第一書房はフランス装を模した豪華本、特装本を世に送り、版画と文学を結ぶ挿絵入り本などで注目された出版社でした。

安規は、恩地孝四郎や永瀬義郎らの第2回版画協会展(1932)第7回国画会展などに作品を出品、次第に認められてゆきますが、1932(昭和7)年岡山出身の古美術研究家・著述家の料治熊太(1899-1982)が主宰した版画誌「白と黒」「版芸術」が創刊されると、そこに作品を発表し始めます。

その頃、青森県から参加していたのが、棟方志功(1903-1975)でした。やがて、幻想、瞑想、夢幻、怪奇、ユーモアなどが混在する安規の版画ワールドが全開するのです。「街の本」(1933年)は、都会の胎内をめぐる、まさに逍遥の成果でした。生涯を通じて常に困窮をきわめ、映画やコーヒーに魅かれて、知人宅や下宿を転々とする日々を過ごします。

「富貴なる人とまじわり 夕べにはせぐくまり寝る落魄の宿」という歌は、36歳で小石川の3畳間での生活ぶり。また、安規のエピソードとして欠かせないのが、倒れるまで踊り続けたという裸体の踊り。焼け出されて掘立て小屋では、かぼちゃを育て、「おかぼちゃさま」として崇拝、「かぼちゃ男爵」とも称されました。

【出典:佐藤春夫記念館・企画展「風船画伯・谷中安規と佐藤春夫」】

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