抽象画家の先駆け~村井正誠②
抽象画を発表、注目を浴びる
1932年(昭和7年)7月、27歳のときに帰国し、翌年2月、小川孝子と結婚します。1934年(昭和9年)2月、村井正誠個展を銀座の紀伊国屋ギャラリーで開催して好評を得ます。
「村井君の滞欧作品約20点をもって開かれたこの個展は、近年稀にみる芸術的な輝きを持ったものであった。全体から見て、村井君の仕事はマチス・デュフイというところを目指しているので、しかもその単純化された形象の取扱いに独自のものがある。(中略)最近帰朝した画家の中で、最も注目すべき純粋な画家であるといって、決して過言ではない。これだけ新鮮な、デリカシテとシックさを持つ画家はそれ程多くない。」(洋画研究1934年3月)
1935年(昭和10年)、30歳のころ、東京都品川区大井鈴が森1927番地のアパート「ポプラの家」に転居します。
「住人は詩人有り、絵描き有り、映画の助監督有り、訳のわからん人種ばかりであった。その中に村井先生夫婦もいらっしゃた。他に貧乏学生もおり、金のない時は、夕食時になると村井先生の部屋に行って動かなかった。……時折、長谷川三郎氏なども現れて、夜遅くまで画論を闘わせていた。そして、いつのまにやら、全員、抽象画を描くようになった。……「ポプラの家」こそ、日本の抽象画の原点であると、私は絶対信じます。」(清野克己)
1936年(昭和11年)6月、31歳とき新宮市公会堂の洋画鑑賞展に5点出品します。翌年、自由美術家協会を創立し、和歌山県ゆかりの「伏虎美術協会」の会員となります。自由美術家協会は和歌山県ゆかりの画家6人(川口軌外、硲伊之助、浜地清松、木下孝則、木下義謙と村井)で発足したもので、5月に和歌山市で、6月に新宮市で名画観賞会と銘打って展示会が行われました。ここに23点を出品しています。
33歳のときに母校の文化学院の講師となります。2年後、戦時色が強まり、官憲の忌憚に触れるのを恐れたため、自由美術家協会を美術創作家協会と改称します。(戦後、名称を元に戻します。)1947年(昭和22年)42歳のときに、岡本太郎らとともに日本アヴァンギャルド美術科クラブを結成、さらに、1950年(昭和25年)、45歳のときにモダンアート協会を設立します。以後、このモダンアート協会を中心にして活動を行います。
モダンアート協会の重鎮、名誉市民へ
1962年(昭和37年)、57歳のとき武蔵野美術造形学部油絵科教授に就任、1970年(昭和45年)、65歳で県民文化賞受賞、同年6月、新宮市名誉市民となります。その後、1972年(昭和47年)に、和歌山県立近代美術館で村井正誠展が開催され、1973年(昭和48年)には、神奈川県立近代美術館で回顧展が開催されました。
1975年(昭和50年)、70歳で武蔵野美術大学教授退任、名誉教授に就任します。1979年(昭和54年)74歳、和歌山県立近代美術館で回顧展、1984年(昭和59年)79歳、和歌山県立近代美術館の特別展『和歌山の作家と県内洋画展」に作品を出品、パリ、ポンピドーセンターにて、「前衛芸術の日本1910-1970展」に出品します。
1995年(平成7年)、90歳のときに神奈川県立近代美術館、大原美術館、岐阜美術館、和歌山県立美術館で回顧展が開催され、第50回中日文化賞を受賞します。1998年(平成10年)93歳のときには第6回中村つね賞を受賞。1999年(平成11年)2月5日、永眠。享年93歳でした。
「村井さんは難しい理論から出発したモダンアート、抽象絵画ではない。もう最初からもっともプリミティブなものを求めて、その単純化したところに集中するというそういう作風であります。……それが、年齢と共に非常にコクがでてきておもしろい、だから村井さんの成熟の決め手は長寿、長生きすることだから、長生きして下さいということを年賀状に書いたことがあります。で、93歳というのはまあ天寿を全うされて亡くなった、存分に制作を展開されたということだと私は思います。」(針生一郎「村井さんの逝去について二つのこと」〔熊野誌〕45号)
新宮にある村井正誠作品
新宮市民会館の玄関ホールの壁画「熊野」を制作。高さ3メートル、幅18メートルの大きさで、熊野三山、八咫烏、浜木綿などを描いています。1966年(昭和41年)作。 丹鶴城址に、「与謝野寬の歌碑」を造形(石造)。与謝野寬の短歌「高く立ち 秋の熊野の海を見て 誰そ涙すや 城の夕べに」を刻んでいます。1986年(昭和61年)5月作。 県立新宮高校の玄関に壁画「新宮の山と海と空」を制作。1997年(平成9年)作。92歳のときの作品とは思えないほど瑞々しい。 |
(出典:熊野・新宮発「ふるさとの文化を彩った人たち」)
西 敏
村井先生には1995年7月和歌山県立美術館でお会いして、新宮から来たと話すと大変なつかしがられサインまで頂いた思い出があります。
その時の先生は90歳でしたが、大きな体で、温和でおおらかで、優しくゆったりとした人という印象があります。
また、昨年暮れから今年の2月まで和歌山県立美術館で生誕110年村井正誠展が開催されました。
いま、新国立競技場の設計で話題になっている「隈 研吾」氏設計の村井正誠記念美術館が世田谷区中町1ー6ー12にあり毎日曜日に開館しています。ただし(2016年)は休館中となっています。
先生は1970年に新宮市名誉市民になられ、翌年の黒潮国体の記念メダル等も作成されています。
先生の業績は、抽象画家の先駆け①②に紹介されていますので省略します。