新宮市名誉市民「東くめ」のこと①(あやこ記)
新宮駅前広場での「はとぽっぽ」歌碑除幕式のこと(あや子記)
1962年7月15日。この日は私共の母「東くめ」にとって真に記念すべき生涯最良の日であったと思います。雷さえ鳴った前日の曇り空に引きかえ、ふき清めたように雲一つなく晴れ渡った南国の青空の下を、こころよい朝風に送られ、私共は二の丸旅館を出発して、「はとぽっぽ」の歌碑除幕式の挙行される新宮駅前の広場に参りました。
公園のようになった広場の大きなフェニックス築山の上に、白布で覆われ紅白のリボンで結ばれた1.5m平方位の碑があり、その前には招待者やこの碑の建設に尽力された主催者の三つの文化団体の方々約400名の他、一般市民方、観光客、また報道関係の方々などを含めて2000に近い人々が式場をとりまいて集っておられました。
母くめと共に長男貞一夫婦、木村新宮市長殿、熊野和歌山裁判所長殿が定めの席に着き、午前9時、花火の号砲一発を合図に除幕式が始まりました。
まず、須川ライオンズ幹事殿が開会を宣し、城南中学校ブラスバンドが「君が代」を吹奏、一同これに和して静粛の気、あたりを払う中にひきつづき高らかに鳴り渡るブラスバンドのファンファーレ、貞一あや子夫妻が進み出てリボンに鋏を入れたその瞬間、さっと幕が除かれ、どっしりと落ち着いた仙台石にくめの自筆が刻まれた見事な「はとぽっぽ」歌碑が市民の眼前に姿を現しました。
同時にひときは高らかに沸き起こるブラスバンドの「はとぽっぽ」の吹奏、歌碑の真上にしつらえられた大きなくす玉がぱっと割れて、五色のテープと紙吹雪が華と舞い散る中から数羽の白鳩が祝福の羽ばたき高く舞い上がりました。同時に後方に整列したボーイスカウトの手から放たれた百個に余る色とりどりの美しい風船が、軽やかに晴れ渡った平和の大空へと舞い上がってゆきました。
取り囲んだ人垣からは期せずして大きな安静と拍手が沸き起こりました。晴れ晴れと輝かしいこの瞬間の情景に母は涙ぐみ、そっとハンカチで目頭を押さえておりました。
中村文化会長殿がこの碑建設の経過を感激に声を詰まらせながら報告、続いて矢嶋ライオンズクラブ会長殿の親切な式辞、木村市長殿の祝辞がありました。また全国から寄せられた多数の祝賀電報や祝辞の中から代表的な二三の文章の披露があって、ライオンズ、ロータリー、文化会三団体からそれぞれ美しい花束が当仲、吉田、福田の三嬢の手によって贈呈され、母は喜びと感謝にあふれ謝辞を述べました。
茶色絽の紋付に紺地絽の帯をしめた色白小柄な白髪の老媼(ろうおう)が姿勢のよい凛とした態度で口調もはっきりと感謝の意をのべ、興の赴くままに手振りを加えて「はとぽっぽ」の説明をすれば、とりかこむ人垣の中にはハンカチで涙を押さえる婦人さえあって、「これが八十歳を過ぎたおばあさんなのか!」感嘆する声があちこちで聞かれる程でした。
母のこの元気に喜びあふれる姿をカメラに収めようと、テレビや報道陣のカメラがこれをとりまき、母の人気は非常に高かったと見受けられました。後、文化三団体からこの歌碑を新宮市に寄贈する式があり、市長殿の発声で母の弥栄を祝福して下さる万歳の三唱があって感激的な「はとぽっぽ」歌碑の除幕式が終わりました。
(こぶしん)
東くめさんのお嬢さんの臨場感あふれる文章がすごい。歌碑を建てた地元の団体の熱意、文化的(観光的)意義、東くめ氏の人となりが、大勢の参加者を巻き込み、大きなひとつの喜びとなるさまが伝わってきました。子供にも大人にも親しまれるわかりやすい詩に、滝廉太郎の作曲。1962年、時代のことも思いました。東夫妻は、東京府立第一高女の教師、お茶の水女子大教師だったのですね。夫の両親がそうでしたので、あらら、です。