沖野岩三郎と高木顕明~博愛・平等思想の実践

明治時代の末、新宮の地でその信仰の違いを超えて、広く人類を対等に愛する博愛思想や平等思想を実践していたのが、新宮キリスト教会の牧師・沖野岩三郎と真宗大谷派浄泉寺住職の高木顕明でした。ふたりは、キリストの教えと親鸞の教えという違いはありましたが、それぞれの信者を介して平和や差別の問題に積極的に関わっていきました。

日露戦争やその戦後の政策が推し進められ、国家や戦争への協力が強く要請されてくるなかで、ふたりは他の宗教者からは孤立を余儀なくされていきます。当時、仏教関係者やキリスト教関係者でも戦争祈願をする人たちが多く、新宮でも忠魂碑が建立され、戦争気分が大きくなってきていました。

そんな中、高木と沖野は、被差別部落の開放や公娼制度に反対するとともに、日露戦争にも反対し非戦を唱えて、宗教界に広く行われていた主戦論を批判しています。弱者や若者への共感という点で、大石誠之助の社会主義思想と連携し、大石を新宮に訪ねてくる社会主義者たちとの交流も深めてゆきます。

顕明への僧侶剥奪処分

「大逆事件」の疑いで高木が逮捕されたとき、真宗大谷派は、事実確認の特使を新宮に派遣します。そのとき、沖野は、高木の人間性、檀徒から慕われている様子、真面目な布教の様子など、友人として証言していますが(「復命書」写しとして1996年その存在が確認済み)、その証言は通じることはなく、高木は僧籍剥奪の処分を受け、その家族は寺に留まることができなくなりました。

無期懲役の判決を受けた高木は、秋田監獄に送られ、恩赦による出獄を期待しながらかなわず、1914年(大正3年)失意のうちに自殺を遂げてしまいます。

岩三郎の宿命論と遺家族救済

「天皇暗殺を謀議した」とされる大石宅での新年宴会に、酒を飲まない沖野が招かれなかったことが、逮捕を免れた大きな要因だったといわれています。沖野の教会も信者数が激減し、「監獄につながれているような」生活を余儀なくされます。

その後沖野は「大逆事件」で犠牲になった遺家族の支援、救済に全力を尽くします。高木の家族が寺を追われるとき、寺の権利の一部を確保してやったり、大石誠之助の遺家族が新宮を出てゆくとき、住居や教会関係の仕事の手配をしてやります。そうして自身も新宮での生活が立ちいかなくなり、上京します。

そのとき、与謝野晶子などに勧められて、自身の体験をもとに書き上げた小説が「宿命」で、大阪朝日新聞の懸賞小説で二等に当籤しました(因みに一等は該当作なし)。しかし、扱っている内容が「大逆事件」ということで、新聞発表に際しては大幅な書き換えが要求されました。自分が刑死を免れたのは、まさに決められた運命であると強く意識し、それ以来、「宿命論」を展開しました。

また、「煉瓦の雨」や「生を賭して」などの作品でも、大石誠之助の家族や、「大逆事件」で犠牲になった人々のことが語られています。沖野はまた、新宮教会のころ、幼稚園を開園したりして、児童教育、児童文学にも足跡を残し、童話集「赤い猫」をはじめ、郷土色豊かな多くの童話も発表しています。晩年は軽井沢で牧師を務め、1956年(昭和31年)80歳の生涯を閉じました。

顕明の再評価

真宗大谷派は1996年、高木顕明の僧籍剥奪の処分を解除し、その顕彰に努めています。高木の墓も新宮南谷の墓地に移され、「余が社会主義」の一節が刻まれた顕彰碑が建立されました。毎年6月には「遠松忌」(浄泉寺は遠松山浄泉寺といい、顕明は遠松を俳句を作るときなどの自分の号とした)が営まれて、その顕彰が継続され、最近では、日本近代仏教史のなかでも、「忘れらた思想家」として、その評価が高まってきています。
(出典:熊野・新宮発「ふるさとの文化を彩った人たち)

<参考>
沖野岩三郎著作集 第1巻 煉瓦の雨 (学術著作集ライブラリー)
沖野岩三郎著作集 第3巻 生を賭して (学術著作集ライブラリー)

(出典:熊野・新宮発「ふるさとの文化を彩った人たち)

西  敏

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