抽象画家の先駆け~村井正誠①
村井正誠生育の家跡(新宮市下本町1丁目2-16)【地図】
村井正誠(1906-1999)は、最初期の抽象画家。新宮市民会館の壁画や新宮高校正面玄関の絵画。お城の与謝野寛の碑などの作品が新宮市内に残っています。父は村井眼科をこの場所で開業していました。
新宮での思い出
村井正誠は、1905年(明治38年)3月29日、村井昌澄・とみゑ夫妻の次男として岐阜県大垣市に生まれ、その後、滋賀県彦根市、和歌山市、田辺市と転居し、1913年(大正2年)、小学校3年生のとき、新宮町下本町に転居、父が村井眼科を開業します。後年、このころのことを思い出して、「熊野誌」41号(西村伊作特集号)で次のように語っています。
「私は小学校を熊野の中心の新宮の町で送った。この周辺のことは何でも知っているし楽しい思い出の土地でもある。海も川も山も揃っている。」
「西村先生(西村伊作のこと)は写生が好きでね。あっちの景色、こっちの景色と画架を立てて西洋画を描いておられるんです。それを見るのが私は好きで(中略)後ろから、おしまいまで眺めていました。」
「絵のことはあまりわからなかったが、とにかく素敵でね。昔の田舎のことだから、絵を描いているとすぐ知れ渡りましたね。(中略)うまい人でしたよ。夢みたいでしたね。」
「あのころは外で絵を描く人なんかいなかったからね。絵を描きに町や山へ出かけたりする人はいなかったから。町で描いているいる人は目立って、よく後ろで立って見ていました。」
「そのころ新宮はなかなか油絵が盛んで、西村伊作さんの跡を引き継ぐ人がいてね。そこで絵具を少し並べて売っていましたよ。そえは日本の絵具ではなく、ターレンスというオランダの絵具でしたね。」
「浜地清松さん(古座の人)が展覧会をやっていたことや、油絵があちらこちらにあったことも覚えていますよ。」
1918年(大正7年)、13歳のとき西村伊作らが新宮で開催した写真展に応募し、二等賞になります。
「煙の背景の中に立っている牛が、川にうつって、足が重なって、三本足に見える。煙の具合が印象派みたいで、それで落選しかかったのを、審査員西村伊作先生が二等賞にひらってくださった。」
「牛が動いてくれるのを待たないといけない。足が4本あると邪魔になるんですね。3本だと隙間ができるでしょう。」
「煙がこっちへ来ないとすっきりしないんだ。煙が来て足が3本にならないとね。それまでじっと待っていたんです。
文化学院からパリへの絵画修行
1922年(大正11年)、新宮中学卒業後、本人は画家を志望していましたが、父に反対され、父の勧めで医学校を受験するも失敗。翌年も同じく医学校を受験しますが不合格となります。1924年(大正13年)には少年期からの夢を実現すべく東京美術専門学校西洋画科(現東京芸術大学美術部油画科)を受験するも不合格。このころから川端画学校洋画科に通うようになります。
1925年(大正14年)3月、東京美術学校西洋画科を再受験するも不合格、4月に文化学院に新設された大学部美術科に第一期生として入学ます。主任教授の石井柏亭のほか、有島生馬、山下新太郎らの指導を受けただけでなく、同級生で後に結婚する小川孝子がいました。
「私が行ったとたん、与謝野寬先生がよく来たと言って歓迎してくれたことを覚えていますよ。」
「まあ、石井先生の学校ですよ。極めて基礎的な学校です。片寄っていないんです。明快で基礎的なんです。」
1927年(昭和2年)9月、二科展に(新宮風景)が初入選。文化学院から二科展へ初めての入選でしたが、残念ながら焼失して原画は残っていません。しかし同時期に描かれた8<蓬莱山風景>は現在でも和歌山県立美術館に残っています。
「城山の方から渡っていく途中にね、こちらの木の生えた石炭屋の横から描いたものです。それから先に行くと海になるんです。実際はもっと船は多かったですがね。いい名前でしょう。蓬莱山。」
1928年(昭和3年)3月、23歳のときにフランスへ渡ります。同月、文化学院大学部美術科を卒業。
「行く前、私、ルノアールのような絵を描いていたんです。行った途端に嫌になっちゃってね。それでこんな絵を描いていたではだめだと思ったんです。」
「時代の変遷とかいうものを感じてね。」
「新しいものを真似しようと思ったって、真似できないんですよ。そのころは。」
「どうしたらいいか、そこら随分骨が折れましたよ。」
(出典:熊野・新宮発「ふるさとの文化を彩った人たち」)
西 敏