大正時代の西村サロンのことなど

大正時代の西村サロンのことなど

大正時代に入って、石井柏亭は1913年(大正2年)にも新宮を訪れ、西村伊作邸にしばらく滞在、池田港の風景を描いた名作「滞船」を描き、この年の文展(文部省美術展覧会)に入選して話題となりました。

1915年(大正4年)完成の西村伊作の洋館(現在の西村記念館)は、さながらサロンのようで、多くの芸術家が訪れています。なかでも、1917年(大正6年)2月、やがて近代の陶芸の第一人者となる富本憲吉と家族が一か月ほど滞在して、西村伊作などに陶芸の手ほどきをしています。

大正時代に各地で修養会という組織が生まれ、そこが受け入れ先となって、講演会がよく開かれるようになります。そんななかから主な講演者を挙げれば、1915年(大正4年)11月には児童文学者巌谷小波が来ており、小波は1924年(大正13年)11月にも訪れています。

1918年(大正7年)には、第一高等学校校長の新渡戸稲造、この人は国際連盟の事務局長なども務め、5千円札のモデルにもなっています。1921年(大正10年)10月にはのちに総理大臣になる若槻礼次郎、1922年(大正11年)8月には九州帝大教授桑木或雄、桑木は物理学者でこの二か月後相対性理論を唱えたアインシュタインが来日してわが国に一つのブームを巻き起こしますが、その紹介、案内役を務めたのがこの人で、ひと足早く相対性理論がこの熊野の地に紹介されたことになります。

1923年、(大正12年)2月には、大正デモクラシーの旗手吉野作造。1924年(大正13年)1月には、劇作家坪内士行(坪内逍遥の子息)らが、「父帰る」の公演をし、西村伊作邸の石舞台ではシェイクスピアの劇を演じたといわれています。同年5月と1931年(昭和6年)8月には植物学者牧野富太郎が訪れ、講演のほかに熊野の植物調査などをしています。

異色なところでは、第三高等学校生大宅壮一が、新宮中学で1921年(大正10年)4月に他の生徒と共に講演し、強い印象を残しています。大宅は戦後の評論界をリードした人です。最期にあたって「新宮に行きたい」と漏らしたと伝えられています。

(出典:熊野・新宮発「ふるさとの文化を彩った人たち」)

西  敏

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