与謝野寛の碑(新宮城跡)

bunka-rekishi-120x90与謝野寛は明治39年と明治42年に来新。佐藤春夫の文学的出発の契機となりました。この碑の短歌は39年の作で、春夫が建てるならこの短歌をと指定した「高く立ち 秋の熊野の海を見て 誰ぞ涙すや城の夕べに」が刻まれています。

なお、碑のデザインは名誉市民である画家の村井正誠です。

yosano11900年(明治33年)雑誌「明星」を発刊して、短歌の世界に新風を吹き込んだ与謝野寬(号鉄幹)が、1906年(明治39年)と09年(同42年)の二回新宮を訪れ、新宮での和歌の世界が、一斉に浪漫的な作風の明星派の影響を受けます。

06年のときは、まだ学生であった北原白秋らを伴い、そのときに詠んだといわれる和歌ーーー「高く立ち 秋の熊野の海を見て 誰そ涙すや 城の夕べに」---が、いま、丹鶴城址に歌碑として建てられています。

09年のときは、新進の評論家生田長江、画家石井柏亭と一緒で、このとき、新宮新玉座での講演会に、中学生(今の高校生)であった佐藤春夫が飛び入り演説をして、それが問題となり、学校から無期停学の処分を受けます。これをきっかけに、佐藤春夫は終生、与謝野寬と生田長江を師と仰ぐことになります。

与謝野寬の妻晶子も、1915年(大正4年)、3月に西村家に滞在、「大逆事件」で犠牲になった大石誠之助の妻栄子(えい)を慰めたりしています。そのときの歌に「熊野川 いとよく涙うち流す 人ばかり居て ものがたりめく」というのがありますが、当時としては、直接には「大逆事件」には触れることができず、この程度しか詠えなかった時代状況にも注意しておくべきでしょう。最近、晶子が明治時代末にも新宮を訪れたのではないかと思わせる資料が見つかっています。

(出典:熊野・新宮発「ふるさとの文化を彩った人たち」)

西  敏

 

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