十男の父 🈡 農業・公人・親 3つの顔  

11人の子の父としての顔、農家の跡継ぎとしての顔、公人としての顔、など様々な顔が父にはある。父の経歴は以下の通り(「地方自治人事調査会」より主に抜粋)。

尋常高等小学校14歳で卒業、家業の農業に就く。18歳で結婚後に入隊、召集解除後35歳で村議当選、2年半後収入役になる。戦中は在郷軍人分会長、公職追放後に復帰後は村・町議会議員18年、監査委員6年、農協理事20年、森林組合長18年、その他土地改良区、社協、郡老人クラブ連合会長などを歴任。全国議長会表彰、県知事表彰。 自治功労で勲五等瑞宝章(昭和56年)。

農家の長男で勉強する時間などなかった(はず)。だが父は書く字も正確だし、難解な漢字や言葉にも精通していた。戦前、戦中、戦後の混乱の時代に一体、どこで身に着けたのか分からない。議会議員選は周囲の要請にシブシブ出馬している(ようにみえた)。

首長選にも出馬要請されたことがある。しかし「その器ではない。今の人(現職)が私より良い」と固辞した。現職の学歴と父のそれは明らかに違った。劣等・鬱屈感からの逃避にボクには当時思えた。しかし「身の丈を知る、足るを知る」父なりの信念・矜持を持ち合わせていたのだと今は思う。ボクが父の立場だったら、すぐ木に登る豚になっただろう。

「花輪16、盛り篭28、弔電120通、弔辞4人、参列者約500人」父の葬儀には田舎にもかかわらず沢山の人に見送られた。「あんたのお父さんの葬式すごかったよね」と今でも言われる。

徳は積めば身につくかもしれないが知識はそれを吸収する場が必要と思う。父からそれがどこにも見当たらない。ボクは一応 大学出だが知識も知恵も浅い、平々凡々の人生で恥ずかしい。お金だけは貯めてもいないし勿論残してもいなかった。むしろ窮々していた。自分の父でありながら「彼はいったい何者だったのだろう?今も分からない」と遺影を見上げながら思うことがある。

 

添付写真説明=丁寧に更新していた年賀状宛先の住所録(一部)=(父の忘備録より)

(吉原和文)

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