伏拝王子社跡から祓殿王子社跡まで

伏拝王子社は見晴らしの良い丘の上にあり、辺りには家が散在し、棚田と茶畑・野菜畑などが広がっている。伏拝の茶は、江戸時代から栽培が始まり、明治時代以降、音無茶という名で知られるようになった。

伏拝王子社跡は地区のはずれの道を少しあがったところに小祠がまつられている。伏拝王子社は享保15年(1730)の「九十九王子記」において発心門王子・水呑王子についで、文献上初めて登場する。

王子社跡からは、音無川と熊野川が合流する辺りに、本宮大社旧社地の大斎原が見え、まさに、参詣する人々が伏して拝んだ場所であることがわかる。

伏拝王子社跡のすぐそばに、和泉式部供養塔といわれる笠塔婆が祀られている。これは、三百町卒塔婆(道標の役割りを果たすために、1町ごとに建てられた笠卒塔婆)の残欠だと推定されるが、この供養塔には、平安時代前期の女流歌人和泉式部にちなむ逸話が江戸時代の「熊野巡覧記」などに伝えられている。

和泉式部が熊野参詣を遂げようとはるばる京から熊野にやってきたとき、ちょうど月の障りとなった。式部は、血の穢れのために熊野の神への奉幣がかなわないと思いこみ、その不運を嘆きつつ、「はれやらぬ 身のうきくものたなびきて 月のさはりとなるぞかなしき」と歌を詠んで寝たところ、その夜の夢に熊野権現があらわれ、「もろともに ちりにまじわる神なれば 月のさはりもなにかくるしき」と式部を慰めたという。

この伝来は、熊野権現が女人の不浄を厭わない例として、時宗の聖たちが世の中に広めたものと考えられている。

伏拝王子跡から熊野本宮大社に向かって延びる道の幅は広く、ところどころに石畳が張られている。この石畳は、元和元年(1619)の改修によるものと推定される。

ちょうど中辺路と小辺路の交差地点に三軒茶屋跡がある。茶屋は大正時代まで営業し、多くの人々で賑わっていた。三軒茶屋跡から小辺路方面に向かうと、戦国時代に伏拝の領主であった鬼ヶ城氏(後の松本氏)の居城鬼ヶ城跡に至る。鬼ヶ城跡は三越川が熊野川に合流する河口の丘(100m)の上に構築された天然の要害である。現在、城跡には三里神社が祀られている。

鬼ヶ城跡から坂道を下ると、祓殿王子社に到着する。旧熊野本宮大社にもっとも近い王子社であり、ここで旅の汚れを祓ったところから、祓殿と称されるようになったようである。祓殿王子社は、現在の熊野本宮大社の裏手にある。

(八咫烏)

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