「春夫詩句を拾う!!」(6)

昨秋より熊野新聞に、そしてその後、佐藤春夫記念館ブログに掲載中の、辻本館長のブログ「春夫詩句を拾う!!」を、許可を得て、当熊野エクスプレスにても連載することになりました。
どうぞお楽しみください。
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若きわれらが命のかぎり

ここに捧(ささ)げて愛する母校

われひと共にみとめたらずや

進取(しんしゅ)の気性(きしょう)質実の風(ふう)

青年日本の代表者

(一九三一年一月「法政大学校歌」)

校歌の二番。この後に「法政大学 おお わが母校」のリフレインが続く。作曲は近衛秀麿(このえひでまろ)。百年に及ぶ東京六大学野球の隆盛と共に、朽(く)ちることはない。

春夫が内田百閒(ひゃっけん)らの推薦で、法政大学で教鞭(きょうべん)を執(と)り始めるのは、一九二九年九月。この年から校歌作製の運動が始まり、学生の作成委員会が結成される。春夫は、学友会誌「法政」に、「熊野まできた学生」を書いて、作詞の事情を語っている。「作曲の便宜(べんぎ)の改作はお断り」としたために、学生たちも苦慮(くりよ)、春夫の後を追って、関西を経由して熊野までやってきた。春夫にとっては、新婚から病魔での闘病、静養中。作詞者と作曲者とに、激しい論争があったとされるのは、プライドのぶつかり合いということだろう。「ここに捧げて(ああ)愛する母校」と歌われるのは、妥協のひとつの証(あかし)か。

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