館長のつぶやき~「佐藤春夫の少年時代」(26)

日本キリスト教新宮教会のこと
春夫が姉とともに通った日曜学校は、「日本キリスト教会新宮教会」のことで、新宮の仲之町にキリスト教会堂を設立、献堂式が挙げられるのは、明治17年6月10日の事です。
大石余平らの努力によって、アメリカのカーバーランドの長老教会からの支援を受けることなく、自力で建立したものでした。当時の仲之町は、まだ商店街にはなっていなくて、竹藪など繁っていて、江戸時代の土壁の武家屋敷なども残っていました。

 

仲之町に設立された新宮教会。中ほどの山高帽姿がA・Dヘール。

大阪にある堀江教会代表山本周作(やまもとしゅうさく)、余平の弟の大石誠之助、日方愛隣教会代表奈古新七、東京品川教会代表で串本出身の神田佐一郎(かんださいちろう)等が来会しました。すでに大阪に出ていて、この年、誠之助も大阪西教会の最初期の受洗者のひとりとして受洗していたようです。受洗名簿のようなものは残っていませんが、後の人々に語り伝えられています。誠之助は9月には、同志社英学校に入学しています。

大石余平とキリスト教との出合いは、余平の生涯を決定付けたと言っていい。最初の橋渡しをしたのは、妹の睦世(むつよ)でした。余平は進学を目指す睦世を伴って大阪へ出たのは、1880(明治13)年6月、木本出身の医師で親戚筋にあたる喜多玄卓(きたげんたく)の世話で睦世は梅花女学校に入学します。82年睦世は浪花教会牧師沢山保羅(さわやまぽーら)から受洗、翌年兄に漢訳馬可伝(かんやくまかでん)を贈りました。4月に余平は喜多玄卓に伝道師の派遣を要請し、6月にやってきたのが、浪花教会会員で文人画家の米津方舟(よねずほうしゅう)と言う人でした。7月には、聖書販売でやってきた山本周作と、馬町の寄席でキリスト教演説会を開いています。

大阪から紀伊半島にかけてその伝道に力を尽くしたのは、「わらじばきの伝道者」と言われたヘール兄弟(A・DヘールとJ・Bヘール)でした。開拓精神に支えられていたとされるその伝道の中で、教会堂を自力で建築し、最初に献堂式を上げたのは、新宮教会でした。やがて、A・Dヘールは新宮教会の父、J・Bヘールは田辺教会の父と呼ばれるようになります。

1877(明治10)年来日したJ・Bヘール夫妻、翌年来日したA・Dヘールの家族たち、いずれも京阪神での活動から、紀伊半島の伝道に導いたのは、「神の声であった」ということですが、それは1881(明治14)年3月の和歌山伝道から始まります。最初の日本語教師として雇った青年小幡駒造と、医学や薬学を学ぶ青年で伝道のために洗礼を受けた山本周作とが、紀州田辺の出身であったことが、紀伊半島への着目のきっかけとなったと言えます。しかし、小幡がA・Dヘールを案内した最初の和歌山伝道は、ものの見事な失敗に終わりました。旅館は「毛唐人」ということで宿泊を拒否され、集会するための1部屋も確保できない有様でした。路傍に立って話しても耳を貸すものは誰もいませんでした。11月の御坊から田辺にかけての伝道では、J・Bヘールが担当し、ヘボン博士から西洋医学を学んだという田辺の村上春海(むらかみはるみ)という医師が尽力し、田辺の夜の集会では200人も集まったと言います。田辺以外では、和歌山と同様で、海岸が説教所となり、海岸や木の根に腰掛けての語りは、さながらイエスがガリラヤの湖畔で岩山を背に福音を伝えた姿を彷彿(ほうふつ)させたと言うことです。A・Dヘールは宣教師の資格とともに、医師資格も有しており、来日当初は医療方も手伝っていましたが、やがて布教に専念するようになります。婦人宣教師も来援、オールとレビットはまだ20歳前後の妙齢の女性で、田辺に滞在して活動する姿は、息子山本周作の受洗に涙ながらに反対していた母親をも、異国の地で信仰一筋に生きる若い女性の働きに感じ入って入信させたと伝えられています。

ヘール兄弟による新宮への伝道は、田辺伝道と平行して進められました。
明治18年3月には、新宮教会に付属英語学校が開設され、同志社大の卒業生伊藤静象が教師として着任、聴講生は60人を数えました。東基吉も含まれていたろうと推測されます。4月には、谷口武平(たにぐちぶへい・46歳)ら4人が、A・Dヘールから受洗しています。武平は幼名を光治郎といい、腕力で鳴らした喧嘩大将として名を馳せ、人々は切支丹光治郎と呼んで恐れたということです。明治16年のある日、光治郎は隣家の余平宅の説教会を立ち聞きし、回心したと言うことです。以来熱心に伝道し、後に長老に選ばれています。

余平の妹睦世が梅花女学校を卒業して帰省、女児のための日曜学校を開設したのは、この年7月のことです。この年の夏、A・Dヘール一家は新宮で過ごすことになります。和佐恒也、愛川えいも一緒でした。ヘールは英語学校でバイブルクラスを担当、夫人と愛川嬢とは女子の学級を開いています。ここには後の東くめも含まれていたのでしょう。男女共学が困難な時です。やがて愛川嬢が大阪に帰らねばならなくなり、女子学級を閉鎖せねばならなくなったとき、保護者は男子学級で学ぶことを望んで実現させました。おそらく、男女共学の嚆矢(こうし)とも言えます。英語学校として自立できる寸前まで、新宮で英語熱が高まっていました。A・Dヘールは、伝道事業報告の中で、この年の新宮伝道を「受洗者20人(男17人、女3人)、現在会員31人、女学校生徒7人、日曜学校生徒10人、婦人出席者8人、伝道献金18ドル、臨時費12ドル、英語学校生徒60人」と報告しています。翌19年6月には、宣教師ミス・レビットが新宮に来て、9月末まで集会や聖書研究会、英語教授等に力を尽くし、伝道のために働きました。

世は鹿鳴館の時代、西欧化が錦の御旗として声高に叫ばれた頃、多少そういった世の動向に動かされた面があるとはいえ、新宮教会の活動は幅広く展開されていったのです。
時を同じくした頃、三重県南牟婁郡尾呂志村の人山田作治郎が明治20年8月天理教信者となり、新宮での布教に従事し始めています。一部僧侶による大々的な天理教排斥の演説会が開かれたりもしていますが、それを乗り越えて明治24年2月天理教南海支教会を設立、12月には下本町旧藩主屋敷跡(二の丸)に教会堂を建立しています(「天理教南海支教会の成立」・「新宮市史資料編下巻」所収)。春夫の父豊太郎が、その隣の地に熊野病院を建てるのは、3年後の9月のことでした。

明治22年の熊野川大洪水の被災に際しては、天理教徒にしろ、キリスト教徒にしろ、その奉仕活動、義捐活動には大いに貢献したのでした。
キリスト教については、その布教において大々的に「邪教」として排斥されたという記録は残っていません。人々の多くは、キリスト教文化を享受できる環境にあったと言えます。余平の子息西村伊作は当然のこと、幼い春夫らにもその影響は及んでいたと言えるのです。

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