醤油発祥の地は湯浅!?
皆さんの家庭では、普段どんな醤油を使っていますか。キッコーマン、ヤマサ、ヒゲタ・・・。我が家は、昔からヤマサ醤油のファンです。そのヤマサ醤油の起源は和歌山県の湯浅にあることをご存知ですか。その味が好きで長年使ってきた醤油の起源が偶然にも故郷の近くにあったことを知り、なにか不思議な縁を感じています。
湯浅は醤油の名産地として知られていますが、その起源は、鎌倉時代までさかのぼります。鎌倉時代に僧・覚心が宋から金山寺(径山寺)味噌の製法を伝えたことに始まりました。覚心は建長元年(1249年)、修行のため宋に渡りましたが、そのかたわら、径山寺味噌の製法を学びました。帰国後、鎌倉幕府三代将軍源実朝の家臣・葛山五郎景倫が実朝の菩提を弔うために建立していた西方寺(後の興国寺)の開山として招かれ、西方寺を真言宗から臨済宗に改めました。
西方寺に移り住んだ覚心は、宋で習った径山寺味噌を製造しましたが、その折に沈殿する汁が調味料として最適であることを発見しました。これが醤油の起源であるとされています。この話は多分に伝説的で、正確な資料があるわけではないですが、湯浅が日本で最も古い醤油製造地の一つであることは確かなことです。
江戸時代になると、湯浅醤油の名声が高まり、販売網も拡大されていきました。湯浅村(現湯浅町)と広村(広川町)には数十名の醤油生産者がいました。紀州藩では早くから湯浅醤油に着目し、藩の専売品として御仕入方役所が取り扱いました。これによって、湯浅醤油は藩の保護と統制のもとに発展し、代金不払いの際には藩が徴収し、各地の御仕入方役所も販路の拡張に尽力しました。
16世紀末の摂津(大阪府北部と兵庫県南東部)・和泉(大阪府南西部)・紀州(和歌山県)の漁民は、鰯漁の進んだ技術をもっており、西国や関東の漁場に出漁していました。紀州の漁民の関東への出漁は、文禄年間から慶長年間(1592-1615年)に始まり、元和年間から寛永年間(1615-1644年)には集団的な出漁形態をとり、やがては出漁地に定住する漁民も現れました。
銚子にも紀州の人々が進出し。明暦2年(1656年)には有田郡広村の埼山次郎右衛門が飯沼村(千葉県銚子市)に居住し、外海に面した高神村の外川浦の港の開発に取り掛かりました。6年の歳月をかけてその築港工事を完成させ、港を中心とする町づくりをして国元から多くの漁民や魚商人をよび寄せたため、外川浦は千戸以上の町となり、”外川千軒大繁盛”と謳われました。
その後も広村からは移住者が相次ぎましたが、広屋を屋号とした濱口儀兵衛もその一人でした。享保年間(1716~1736年)に、広村の濱口儀兵衛・岩崎重次郎らが、大消費都市である江戸に目をつけ、下総の銚子で醤油を製造するようになりました。これが、現在のヤマサ醤油です。こうして湯浅醤油は京都や大坂をはじめ、各地にその名を知られるようになりました。
なかでも京都では、文化13年(1816年)以降、「他国醤油売問屋」の統制を受けることなく、紀州の国産醤油として自由に販売できました。それは、御三家紀州藩の専売品であったからですが、それに加えて品質も良かったため、各地に販路を広げ好評を得ました。
濱口儀兵衛は初代から代々受け継がれる当主の名前ですが、7代目儀兵衛は「稲わらの火」の濱口梧陵として知られています。また、10代目儀兵衛(濱口梧洞)は醤油製造の工程と事業の近代化に努め「醤油王」と謳われその名を残しています。
(出典:和歌山県謎解き散歩)
八咫烏