村人を救って教科書になった~濱口梧陵

震災時にはまず生命の安全を確保すること、そのためには正確な情報を速やかに伝達することが何よりも大切だ。梧陵の沈着にして果断な行動から得られる教訓はこれに尽きるが、彼の偉業はやがてラフカディオ・ハーン(小泉八雲)の知るところとなり、明治30年(1897年)、「生ける神」として作品化される。

昭和9年には、南部小学校の訓導・中井常蔵が、文部省の小学校教材の公募に際し、この作品をもとに「燃ゆる稲むら」という一文を草して応募、小学校国語読本巻十「五年生用」に採用され、「稲むらの火」として戦前の防災教育の一翼を担うことになった。

この「稲むらの火」は戦後、教科書から姿を消すが、スマトラ沖地震・インド洋津波(2004年)を機に、国際的に注目されることになる。インド、インドネシアなど被災国は地震・津波多発国の日本に防災に関する助言を求め、その際、「稲むらの火」が取り上げられ、すでにアジア八か国、九言語に翻訳されて広く読まれているのだ。

そして、平成23年度から、この「稲むらの火」が梧陵の伝記「百年後のふるさとを守る」-このタイトルは梧陵の「住民百姓の安堵を図る」の言葉に因んでいるーに衣替えして、64年ぶりに日本の小学5年生用国語教科書でも復活することになった。

【濱口梧陵の横顔】
名は成則、通称儀兵衛、梧陵は号である。醤油製造業を営む豪商・浜口儀兵衛家(現ヤマサ醤油)の分家の長男として生まれ、12歳で本家の養子となり、下総国銚子(現千葉県銚子市)へ移る。

家業のかたわら江戸に出て佐久間象山に師事、海外留学を志すが果たせず、30歳で帰郷し広村に修養場「耐久社」(現耐久高校)を創立する。

その後、紀州藩勘定奉行などを経て、明治4年には大久保利通の要請で明治新政府の初代駅逓信頭に任じられるが、半年足らずで辞職、同18年には初代和歌山県会議長に就任している。

因みに、梧陵が本家の養子に入り移り住んだ銚子は、明暦年間(1655-58)に広村の崎山次郎右衛門が港と町を建設し、多くの紀州人が住んだため紀州人が作った町といわれている。

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