紀州広村の村人の命を救った~濱口梧陵①
安政元年(1854年)、11月5日、午後4時頃、前々日の安政東海地震に続き、安政南海地震が発生した。震源は紀伊半島から四国沖、マグニチュード8.4-8.5、最大震度6-7(新宮など)と推定される巨大地震である。
その夜、紀伊半島沿岸部一帯に最大15メートルの大津波が襲来する。この地震と津波による被害は家屋の全壊2万、半壊4万、焼失6千、流失1万5千、死者3千と伝えられているが、このとき、驚くべき危機管理能力を発揮したのが広村(現広川町)の庄屋・濱口梧陵(1820-85)である。
広村も激しい揺れと8メートルに及ぶ津波に見舞われたが、梧陵はまず働き盛りの人々を励まして、村人を安全な高台にある広八幡神社に誘導し避難させた。その後、自らも波にさらわれかろうじて助かるが、折から日がとっぷりと暮れたのを見て、若者十数人に松明を持たせ、すでに稲刈りを終え稲架した10か所余りの稲むらに火を放たせる。この措置により、九割り以上の村人命が救われ、稲むらの火を目印に岸辺にたどり着いた漂流者も少なからずいたという。
この津波の後、梧陵は被災者の救恤にあたる一方、巨額の私財を投じ広村堤防の築造に乗り出す。そして、約4年の歳月をかけ海岸に高さ約5メートル、幅20メートル、長さ約600メートルの防波堤を完成させる。その約90年後、昭和19年(1944年)から東南海地震・南海地震が断続的に発生、津波が来襲したが、この防波堤のおかげで、広村では甚大な被害は出なかった。
(出典:和歌山県謎解き散歩
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(八咫烏)