堀内氏善の奥熊野統一

堀内氏の出現
戦国時代の奥熊野地方は、小豪族が各地にあってそれぞれが独立して領地を治めていました。特に熊野三山とその周辺の土地は、三山の領地として(神領)として認められていました。その神領を七上綱と呼ばれる人たちが合議制で経営していたのです。彼ら七人は、新宮十郎行家の子孫であるとか神官の出身とかいわれています。堀内氏が力をつけて出てきたのはそんな時代でした。

堀内氏が新宮市佐野に居住し、ここに勢力をはっていた石垣氏をその配下においたのはいつごろのことかはっきりとはわかりませんが、少なくとも天文年間初頭(1530年代)には確固とした勢力をもっていたようです。

弘治2年(1556年)、堀内氏虎の子(もしくは弟)楠若(後の氏善)が有馬氏の跡を継ぎ、有馬の領地を手に入れます。天正2年(1574年)、には氏虎が死んで、氏善が跡を継ぎました。このころ、三輪崎に上諏訪社、佐野に下諏訪社を勧請しています。その後、新宮に進出した堀内氏は、七上綱の勢力を凌ぐようになります。居は現在の全竜寺(千穂1丁目9番)に定め、周りを掘で囲み、広大な屋敷を構えました。

天正6年(1578年)、長嶋城を落とし現在の北牟婁郡までを領地とします。天正8年(1580年)、浅里の東ノ城を落とし、熊野川筋をその領地に加えます。この年、織田信長は石山本願寺と講和を結び、石山合戦は幕を閉じました。一部の者は、雑賀衆と組んで紀州で反乱を起こしましたがすぐに鎮圧されました。

天正9年(1581年)、那智の廊之坊(潮崎氏)が立てこもっていた勝山城(浜の宮の裏手あたり)を落とし、那智山の実験を握りました。当時、那智山には米良実方院と潮崎廊之坊とが勢力を二分していたのを、堀内氏は米良氏と姻戚関係を結び、一緒になって廊之坊を攻めたのです。

天正12年(1584年)、古座の高川原氏と争い、ついに田原を境にして堀内氏の領土は確定しました。堀内氏が領した場所を現在地でいうと、北は紀伊長島の荷坂峠より南は古座の田原まで、川奥は本宮の皆地まで、石高は約6万石といわれています。

堀内氏のその後
天正10年(1582年)、羽柴秀吉が本能寺の変で亡くなった信長の跡を継いで、全国平定に乗り出します。天正13円(1585年)、秀吉は紀伊路を南下、その圧倒的な圧力に次々と小豪族は倒され、または服従を誓わされました。堀内氏も戦わずして秀吉に屈服し、領地を安堵されました。

その後、秀吉の朝鮮出兵時には、堀内氏善も600人ほどの部下を引き連れ参加しています。しかし、関ヶ原の戦いでは西軍の石田三成に味方し、敗れた後は熊本へ流され、そこで亡くなりました。今でも、熊本には堀内氏の墓が残っています。

堀内氏の出現により、熊野地方の状況は激変しました。最も影響があったのは、紀伊と志摩の境界が変わったことです。熊野市二木島を流れる逢川には、伊勢大神宮と熊野権現が会い、志摩と紀伊の国境とされたという伝承があり、古くは志摩と熊野の境は、現在の熊野市と尾鷲市との間の矢の川峠であったようです。

しかし、前述のように、堀内氏が戦国大名として新宮周辺の地域を攻め取り、奥熊野一帯を支配下に置きました。山が迫り入り江が無数にある熊野は、古代より小豪族が乱立して独自の世界を築いていたのですが、中世末期に初めて統一政権が確立されました。このときの堀内氏の勢力範囲が、荷坂峠から古座・田原(現串本町)までで、これがそのまま江戸時代から現代に至るまでの奥熊野の範囲となって確定したのです。

堀内氏の台頭は、現在の熊野のあり方にまで影響を与えた大きな出来事だったのです。

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