館長のつぶやき〜「佐藤春夫の少年時代」50

春夫らの明星調からの離反
再び、ここで中野緑葉の回想に戻りますが、その前に中央の文学界の動向を辿っておかなければなりません。
明治30年代の浪漫主義文学を先導したのは、与謝野寛が主宰した「明星」であったことは、誰もが認めることです。ところが、明治39年を境として、西洋の文学的な動向も導入されて、象徴主義や自然主義の影響が顕著になるにつれて、詩歌壇も急激な転換期を迎えます。与謝野寛が熊野を来訪するのは、明治39年秋であったことも、ここで想起したい。島崎藤村が「破戒」を自費出版して波紋を呼ぶのもこの年で、翌年には田山花袋が「蒲団」を発表します。自然主義文学の代表とされる作品です。雑誌「明星」もそれらの余波をまともに受けることになります。

明治40年12月号の「明星」は、「『明星』を刷新するに就て」と題する新詩社同人の宣言を載せています。なかで言います―「見よ、無益なる自然主義の論議に日を消する諸君、そこにも、彼処にも。又見よ、性慾の挑発と、安価なる涙とを以て流俗に媚ぶる、謂ゆる自然主義の悪文小説は市に満つ。想ふに、彼等、人として統一的自覚なく、文人として天分乏しく、甚だ空想と情熱と詞藻とを欠き、古代文芸の修養浅く、はた、社会競争の苦闘より未だ心上の鍛錬を嘗めざる平凡の徒が、偶ま茲に平凡なる安堵の地を見出でて、姑らく落居せむとするものか、詩歌の浄城も亦漸く彼等が跳舞の場たらむとす。あヽ我等、不敏と雖、此際に努力せざるべけんや。」

「明星」は年明けの新年号から大刷新を図るとして、「明星」派内部にも浸透していた自然主義的な風潮を一掃しようとの狙いで、「反自然主義宣言」と言われるものです。与謝野寛の筆になります。

しかしながら、この宣言が不当であるとして、北原白秋、吉井勇の熊野来訪組はじめ、木下杢太郎ら7名が連袂(れんべい・たもとを連ねる)脱退事件が起こります。裏には、寛の古い宗匠意識に我慢がならなかったと言う事情もあります。「明星」の前途には逆に危機が押し寄せ、結局、大刷新の意図も空しく、「明星」はこの年11月の百号記念号を出して幕を閉じざるを得なくなります。与謝野寛は、「わが雛(ひな)はみな鳥(とり)となり飛び去(さ)んぬうつろの籠(かご)のさびしきかなや」と嘆きの歌を詠んでいます(「相聞」所収)。与謝野寛が熊野の地を再訪し、この地との係わりを深めるのは、それ以後、明治42年夏のことであったのです。
その間寛は、精神的な苦境にも瀕していました。山川登美子をめぐって、晶子との間に離婚の危機も抱えていました。春夫は、後年「晶子曼陀羅」の中で、寛の庭前での奇妙な振る舞いについて描写しています。「せっかく百号まで続けて来た明星も百号を大々的に記念号として廃刊した後は、門前も自ずとさびれて訪う人もないのを、わざとらしい強がりに面会謝絶などと貼り出した彼の本心は来客の恋しい所在なさに、いつまでも庭に居て、土いじりかと思えば、事もあろうに、童子のいたずらのように蟻の大群を石でたたき殺しているのであった。/ それを見咎めると、ふりかえって、蒼白い真顔で、ただ一言、「憎いからね」と云う意味は、晶子にはすぐわかった。とるにも足らないものが、ただ頭数だけをたのんで横行するのが、文苑や詩壇の有象無象(うぞうむぞう)の徒党のように思えて、罪とがもない虫にこう当たっている。それほど憤ろしくさびしいのである。今はそれを諷詩に歌うすべをすら忘れかかっている。彼はもう発狂の一歩手前まで来てしまっている。/ 晶子もこれには慄然とした。」と。『晶子曼陀羅』の94章です。

この寛の蟻殺しのエピソードは、すでに晶子自身の自伝的な小説「明るみへ」(大正2年6月~9月「東京朝日新聞」連載・未完)でも取り上げられていて、世に知られていた逸話だったのです。寛は精神的にもかなりマイってしまっている、それが明治41年ぐらいの時期の寛の姿であったと言えます。だから翌42年に石井柏亭と生田長江とこの熊野に来遊したときは、そういう点では心の病いの回復というような意味があったのかも知れません。

そんな中央での動向に対して、熊野での和歌の世界はどうであったのか。中野緑葉の回想が参考になります。

「当時中央歌壇は、与謝野氏の明星派に対抗して、尾上柴舟氏を主宰とする雑誌「新声」が頭を擡げ、明星派が星菫の臭味を持つた貴族的遊技とは全く反対に、別に一新体を為した「人生派」とも名づくべき内容と調子を持つた新派和歌を発表して居た。その勢は漸次高潮して遂には「明星」と相伯仲するやうになつた。斯くて歌壇は東に「明星」西に「新声」がおのおのその態度を表明してにらみ合ふやうになつた。当時新声派が生んだ収穫として今日残つて居る人は、若山牧水、前田夕暮、土岐哀果の三氏で、哀果氏は当時湖友と号して居た。この両者の対峙を中心として中央歌壇はいろんな傾向を所々に小さく生んだが、その大なる潮流は、依然として明星と新声の二誌が為して居た。この潮流が、いつともなく熊野歌壇へも注ぎ入つたが、毎週一回の短歌会で発表される歌の中にも、おのづと各種の色が出て来た。それはこれまで和貝氏を対照(ママ)として盲目的に進んで来た「みどりば」時代の人々が、漸やく目ざめの第一歩に自然的に踏み入つて居た証左であつた。当時の状態から推して、私共の唯一の対照であり指導者であつた和貝氏自身も自分の行くべき道、歩む入るべき道が、どんなであるのか判らなかつたやうに思ふ。従つてそれを唯一の頼りとして歩いて居た私共の歩調が、どんなであつたかは想像に難くないであらうと思ふ。」(「朱光土」1号)。

若い歌人たちが与謝野寛の下を翔(と)び起ち始めていたように、熊野の地でも春夫ら若い世代は、和貝夕潮の軛(くびき)から抜け出そうとしていたのです。


だから、明治41年7月の「明星」に、春夫ら若い世代の和歌が、和貝の投稿によって掲載されたことは、ある意味では皮肉の意味を含んでいたことにもなります。

和貝夕潮の「籠(かご)」から飛び立った春夫を筆頭に奥栄一や下村悦夫は、和歌仲間の連中から「急進党」と揶揄されました。中野は書いています―「「浜ゆふ」の人々の中でも新声派の影響を多分に享けた佐藤春夫、下村紅霞の両君は人生派の歌を楯にして明星派の歌に抗弁した為和貝氏から「君達は急進党である。吾々はランプ党で君達は電気党だ」と戒飭(かいちょく・いましめること)された結果、遂に和貝氏から破門された。」(「朱光土」3号)

春夫らの「破門」は、明治41年10月の頃と推測され、こういった経緯が、ただ若者の反抗というだけでは収まらずに、「みどりば」の続行を困難にし、復刊「浜ゆふ」の中絶をも強いていったのです。和貝も「破門」したとは言っても、交流が途絶え絶縁したわけではない。和貝も和貝なりの困難を抱えていたと見え、高等小学校を辞して、熊野実業新聞社に記者として就くのは、明治42年1月のことで、夏の与謝野寛の再訪に尽力することになります。

春夫は明治41年10月15日付の熊野新報紙に「紅林檎」と題する8首を、管見では初めて単独で発表しています。さらに、10月22日付の熊野実業紙に「二人のうた」と題して、下村悦夫と4首ずつの形で発表しています。「破門」後の彼らの示威活動らしくも見えます。「向かひ居てただかたるだに腑し目がちわが本性のか弱さを愧ず(紅霞=悦夫の号)」「ちくたくと時を刻める夜の時計この世の外にわれ眠る間も(春夫)」など。「紅林檎」には、「悲しさを「悲し」と云はずわが性(さが)の「うれしからず」とわれに云はせぬ」などとあります。悦夫は自身の「か弱さ」を十分に認識してか、しばらく「弱き人」と名乗ったりします。

春夫の「黒瞳」7首も、これは「初恋の人」大前俊子に捧げられたものと解釈できます。自意識と憧れの心に引き裂かれた作者の姿が投影してます。

「秋の夜や君は語らずみひとみの黒きを見つヽわれ云はずまた」「ナイフいま紅き林檎の皮と実のあいをかすかに音たてヽへぐ」「わが過去を悔ゆるにあらず反抗のなみだ滂沱と頬をくだるかな」「ひれふしてわが身を君に委ねんとすれど男の子のほこりわれもつ」など(明治41年11月12日「熊野実業新聞」)。黒い瞳は、「つぶら瞳の君」俊子の象徴であったことは、後の抒情詩ではっきりとします。

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