館長のつぶやき~「佐藤春夫の少年時代」(39)

沖野岩三郎、春夫の家族を描いた短編「自転車」
明治9年に日高郡寒川(そうかわ)村(現日高川町)に生まれた沖野岩三郎が、明治学院で学んだ後、キリスト教新宮教会牧師として赴任してくるのは、明治40年6月、約1年前、夏期伝道で新宮を訪れており、大石誠之助らと出会っていました。

牧師沖野岩三郎の熊野・新宮での10年間は、明治43年6月3日をもって反転します。短絡的、比喩的に言えば、紀伊半島の先端近く、新宮の町で沖野が体験したのは「談論風発した」町の3年間から、「恐懼せる町」(佐藤春夫の「愚者の死」・なお「牟婁新報」などにも表記)への7年間の反転であった、と言えます。

3年間の沖野は、それ以前からそうですが、筆力が旺盛で、新宮での2新聞と田辺の「牟婁新報」等に盛んに作品を発表しています。京都の「日出新聞」にも作品が載っています。新宮から転出して記者をしていた徳美夜月との縁からです。「新宮市史 史料編下巻」に収録されている「沖野岩三郎の観た明治末の新宮」の項は、天上や地下、縦横から見た鳥瞰的な新宮観察記になっていて、皮肉や批判も滲ませた独特な記述になっています。

その後沖野は上京して作家として活躍しますが、大正5年に春夫らと同人雑誌「星座」を発刊する評論家の江口渙は、大正7年「最近文壇に於ける四氏」として、佐藤春夫、菊池寛、葛西善蔵、沖野岩三郎を取り上げ論じています(大正9年4月刊の評論集「新芸術と新人」所収)。沖野も春夫も、この年、作家として認められたと言っていい。後述するように、春夫は沖野の創作に対する態度には終生疑問を抱き続けていたようですが、それは、一言で言えば、沖野作品にみられる宗教色に対する違和とでも言えましょうか。

その沖野に「自転車」という短篇があります(大正7年6月「新公論」・大正7年9月刊『煉瓦の雨』所収)。「鳳一郎は非常な子煩悩であつた」で始まるこの作品は、春夫の家族らをモデルにしたもので、春夫は「長男の一夫」として登場します。4年次の事とされていて(実際は3年次である)、「一夫」は部屋に閉じ籠ってしょげ返って、それを2人の弟が慰めているのを見た鳳一郎(豊太郎がモデル)は、落第通知の立腹を、せがまれて買い与えた「自転車」に向けるのです。時に「激情」を律しきれない側面が有ったとされる豊太郎を描出しています。

 

 

 

 

 

 

 

 

伊作画の「自てん車」(『はまゆう』19号(明治40年4月25日)の裏表紙)

鳳一郎は「庭の桜の根下にニッケル鍍金(めつき)のきらきら光る自転車が寄せかけてあるのを見た時、いきなり飛び降りて行つて其自転車を右の足で力を籠めて蹴つた。がちやり!と音を立てヽ車は倒れた。傍にあつた手頃な庭石へ鳳一郎の両手が掛つたと思ふと直ぐに『えーい、此奴めが!』と言つて其石を高く差上げてドスンと力一杯に自転車目がけて投付けた。美しく磨き立てた車輪が見る見るくちやくちやに歪(ゆが)んで了(しま)つた。彼は更に其石を拾ひ上げて他の車輪へ今一度力任せに投げつけた。すると今度は、ぽうーんーと大きな爆音を立てヽタイヤアが破れた。/ 彼は『これで好し!胸がすつきりした。』と云つて足袋跣足(たびはだし)のまヽ勝手の方へ走つて行つた。」とあります。鳳一郎は、何と乱暴者なのだろうと自戒しつつも、「姉娘が癇癖の強い夫(をつと)を持つてゐる事などを連想して急に悲しくなつて来た。」と記します。

「自転車」は、鳳一郎が一時病院を閉じ北海道へ行く話や、再び熊野で開院する話などを挟みながら、一夫が講演会に登壇した事件や無期停学に言及し、やがて一夫が東京で小説家を目指していて、どうやら同棲している女性が居ることなどに展開してゆきます。講演会での演説内容は、多分に脚色されている節はあるものの、後述するように、その場に作者の沖野自身が居合わせた事実は興味深いものがあります。やがて、一夫は女性を連れて帰省してくる。姉娘はすでに2人の子どもを連れて離婚してきており、孫の寛一(竹田龍児がモデル)が机でしきりに家族の名前を記述しています。病院の看護婦等の名もあり、そこに「トリ」「ビョウニン」「ネズミ」「クルマ」などとともに、「ジテンシャ」もあります。一族の集合が描写され、やがて一夫の弟たちも上京してゆきます。鳳一郎はそこに時代の移り行きを感じつつ、不遇な身の寛一の優しい気高さにそっと涙するのです。

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