大斎原

熊野本宮大社の表鳥居から国道168号線を渡ると、旧社地の大斎原への新しい石畳の参道がある。この付近は、室町時代の「熊野詣日記」によると「鳥井の辻」と呼ばれていた。中世の参道は、熊野川の畔にある産田社の手前で右折し、そのまま南に進み蛇行してきた音無川を渡り、東鳥居をくぐって大斎原に至ったようである。

熊野古道中辺路を歩く参詣者たちは、その上流・中流において何度か音無川を渡り、最後に旧熊野本宮神社社前で必ず音無川を歩いて渡り、社地に入るという「ぬれわらじの入堂」を行うことになっており、音無川は熊野本宮に入る最後の潔斎垢離晩場としてとくに重要とされた。音無川の文献上の初見は、10世紀後半に書かれたと考えられる紀行文「いほぬし」で、神域を流れる聖なる川として、歌枕となっている。

熊野本宮大社は以前、上四社、中四社、下四社、あるいは三所権現社・五所王子社・四所明神社で構成され、熊野川とその支流の合流地点に形成された広大な中州である大斎原に鎮座していた。しかし、明治22年(1889)の大水害によって社殿の大半を流失し、祓殿王子社跡近くの山中に、流失を免れた上四社だけが移転・再建された。大斎原と呼ばれる旧社地には、現在、杉木立に囲まれた切石積みの巨大な基壇が残され、そこに流失した中四社・下四社の神々をまつる小祠が建てられている。

大斎原から音無川を渡り、西鳥居から外に出た目の前の高台を登った所に、中世行幸御宿泊所本宮竹の坊屋敷跡があるが、大智庵がある。

竹の坊屋敷跡は現在、市立本宮小学校の敷地内にあるが、院政期の一時期に、上皇・女院法皇らの参詣の際に宿坊として利用されたようである。

大智庵には、江戸時代に制作された木造家津御子神像と室町時代後期に制作された木造薬師如来坐像が安置されている。また、旧光明寺墓地には、本草学者の畔田十兵衛墓があり、その西北の市立本宮中学校の裏山には、平安時代から室町時代にかけての中世墓地群である平野遺跡がある。

熊野川を挟んだ大斎原の対岸に、備崎丘陵がある。ここは大峯奥駆道の始まりであり終点でもあった。備崎丘陵には、備宿遺跡とその関連遺跡である備崎経塚、さらには海神社跡などがある。

備宿遺跡は、熊野から入り吉野へ抜ける順峰の第1宿にあたっており、広い意味で備崎丘陵の森一帯を指しているといえる。備宿遺跡は、礼拝所である磐座群および石窟(胎蔵窟・金剛窟)と、納経所で、12~14世紀の大規模な経塚群である備崎経塚、さらには参籠所と標高159mの最高所にある神仏の宿る「神仏界」とから構成されている。

七越峰(262m)は、備崎丘陵からつながる「役行者一千日山籠」の伝承をもつ聖域で、山頂の広場には、西行法師の歌碑が立ち、さらにそのそばには、江戸時代中頃の丸彫り地蔵尊像2体がまつられている。さらに、奥駆道は続き、吹越宿跡を経て山在峠・大黒天神岳・五大尊岳とつながっていく。この辺りはもう奈良との県境である。

(八咫烏)

 

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