紀州人・熊野人気質

司馬遼太郎は、髙田屋嘉兵衛を描いた小説「菜の花の沖」の中で、大阪ー江戸の太平洋航路の中継港として栄えた新宮港(池田港)について書いており、同時に、新宮人の気概についても次のように触れています。

 

熊野炭は、江戸の大名屋敷や料理屋などで珍重された。とくに備長炭にいたっては工夫をこらした商品で、熊野で生産される木炭の8割はこの新宮港から積みだされ江戸に送られた。京・大坂に出されるのは残り2割でしかなく、「上方相手では商いにならぬ。わしらは江戸の大名相手じゃ」という気概が新宮人にはあった。

また、鰹漁と鰹節について説明したくだりでは、

 

この漁の技術が紀州熊野でとくに発達したのは、山が海浜にせまって耕地が少ないという地理的条件がまずあるだろう。この土地では、古い時代、田畑持ちの農民が鰹の季節だけ鰹漁をするという形態が多かったらしい。

次第に漁船の数が多くなり、地場の熊野鰹だけでは漁獲が少なくなり、他に漁場はないかと冒険的な漁民たちが遠くへ乗り出すようになった。この勇敢さは熊野人の特徴ともいうべきもので、はるかに後世、明治・大正期にこの土地のひとびとがはるか南半球の豪州沿岸まで押し出して真珠貝を採ったことと無縁ではない。

とその気質を述べています。

紀州は山国で、山地が海岸まで迫っているため耕地面積が狭く、農業だけでは暮らせない土地でした。そのため農民は古くから、農閑期になると他所の土地へ働きに行く出稼ぎをしていました。ことに次男、三男は農閑期でなくても長期間の出稼ぎは当たり前なことでした。

このため紀州人は進取の気性に富み、明治以後も太平洋戦争前まで、小さな船でオーストラリアのアラフラ海まで、南洋真珠貝の一種の白蝶貝採りの出稼ぎに行った人がたくさんいました。白蝶貝は直径30センチもある大きな貝で、直径9~12㎜の大玉真珠の他に、貝殻から真珠色をした高級服の貝ボタンの材料や装飾品が沢山出来て大変高く売れました。

しかし、ヘルメット潜水で捕ったので危険も多かったようです。木曜島には操業中に潜水病で倒れた人々の墓が、今も700基も残っていて、享年23歳とか27歳という若者の墓が多いそうです。墓は地元の方々が今も定期的に掃除をしてくださっているそうです。

この他、アメリカに出稼ぎに行った人々も多く、今もアメリか帰りの人々が住む「アメリカ村」があるほどです。このように紀州人には、海を恐れず遠い他国にまで出かけていって仕事をするという勇敢な気概があったようです。

このような、紀州の先人たちの気質・気概は、きっと代々受け継がれてきているはずですから、若者たちは今後、世界に大きくはばたいてほしいものだと思います。

(八咫烏)

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