和歌山県の民話・伝説⑤文左とミカン船
貞享2年(1685)の秋、紀州ではミカンが大豊作であった。もともと紀州ミカンは、有田の伊藤孫右衛門という人が肥後の国八代から二株の苗を持ち帰って植え付けたのが始まりだといわれている。やがて、紀州の殿さま頼宣公も力を入れて奨励したので、次第にミカンの木も増え、そのころにはもう紀州の特産として全国に知れ渡っていた。
今でこそミカンは静岡あたりでも作られているが、その頃は、江戸の人々にとって、ミカンと言えば、紀州から廻船で運ばれてくる紀州ミカンしかなかったのだ。ところで、江戸の町では毎年秋に、ふいごまつりというお祭りがあった。その日、鍛冶屋はふいごの火を消し、神棚に祀り、ミカンをお供えする。そのあと、このミカンを子どもたちに投げ与えるもので、その日になると、子どもたちがどこの鍛冶屋にもいっぱい集まってきたもんじゃ。
ところが、貞享2年のその年、ミカンは大豊作であったが、来る日も来る日も海が荒れて、大阪から江戸へ通う廻船が紀州の港へやってこない。ミカン農家では山と積まれたミカンを目の前にして気が気ではなかった。
「江戸のふいご祭りも近いというのに、船が来ないんじゃ、ミカンを積みだすこともできん。このぶんじゃミカンの値が下がってしまうぞ」
「値段が下がるだけならいいが、このままでは、ミカンが腐ってしまう。そうなったら、元も子もなくなるやないか」
そんな時だ、湯浅の文平という若い男がミカンを買い集めているという噂が立った。
「腐らせるよりは、安くても売った方が得じゃ!」
百姓たちは我も我もと文平にただのような値段でミカンを売った。そして、金を受け取った後で、
「どうせ運べやせんのに、あげにミカンを集めて、どがいするんじゃろうのう。ばかなやっちゃ。」
と陰口をたたいておったと。
文平は、歳は若いが肝っ玉が太く、しかも目はしのきく男であった。その頃、奥州の船が、このしけで阿波へ流れつき、その帰りに紀州下津の大崎の方浦で海の凪ぐのを待っていた。文平は、その天神丸という五百石積みの船を雇っていたのである。
天神丸の船頭も、初めから気持ちよく雇われたのではなかった。
「このしけの海を江戸まで行くのは、無理じゃよ」
としぶったのを、文平は、
「頼むから、是非行ってくれ。そのかわり、江戸へ着いたら百両やろう」
と言って強引に引き受けさせたのである。百両は今のお金にして、数百万円にあたる。船頭もそれならと承知した。
それから、命知らずの若い水夫が8人集められた。これも、江戸へ着いたら大金を渡す約束で乗り組ませたのである。文平は、山積みにされてあったミカンを、籠に入れ、その籠をひとつひとつ天神丸に積み込んだ。
さあ、愈々船出じゃ。そのとき文平は言った。
「海の死神と闘って江戸へ行くんじゃ。みんな、この着物に着替えてくれ」
見れば、葬式の時死人に着せる白装束である。命知らずの若い水夫たちは、面白がって身にまとった。と、文平は、
「天神丸という船の名も、ゆうれい丸という名に買える。みんな、いいな」
「おう、がってんだ」
こうして、ミカンをいっぱい積み込んだゆうれい丸は、荒海の沖合目指して下津の港を船出していったんじゃと。
船は大揺れに揺れた。ことに日ノ岬をかわして潮岬にかかると、帆柱も帆もうなり始め、お寺の屋根ほどもある大波が打ち寄せてきて、ゆうれい丸は木の葉のように翻弄された。熊野灘にかかると、嵐はまずますひどくなった。帆柱は折れ、船蔵も水浸しになった。
「われらは、もとより死は覚悟ぞ。なにがなんでもミカンを江戸まで運ぶんじゃ」
文平は、みんなの先頭に立って、水をかい出し、積み荷のミカン籠を太い綱で結わえなおした。
遠州灘も同じだった。さすが命知らずの水夫たちも何度もうこれまでと思ったことか。だが、文平は、
「みんな、元気を出せ。船を沈めるな。江戸へ着けば、大金が手に入るのだぞ」
と、励まし励まし、逆巻く大波を乗り切っていった。
石廊崎を回り相模灘まで来ると、ようやく嵐もおさまって、みんなの顔には笑顔が戻った、ゆうれい丸は、やっとのことで江戸に着いた。ふいご祭りの前々日のことだった。
「紀州からミカン船が着いたぞう」
と、たちまち知れ渡って、船着き場には、にわか作りの競り市が作られた。今年はミカンなしのふいご祭りかと、すっかり諦めていたところへ、たった一艘だけミカン船が入ってきたのだ。それに、命をかけてミカンを運んだ文平の行いが、江戸っ子の心意気を打ったのだろう。
沖のくらいのに 白帆が見える
あれは紀の国 ミカン船
と、歌にまでなってもてはやされ、ミカンは考えもつかないほど高値で飛ぶように売れた。船頭や水夫たちに払っても、なお、五百三十二両という大金が、文平一人の儲けとなった。やがて文平は、その金を元手にして、江戸深川の木場で材木問屋を始めた。店の名前は紀伊国屋といい、文平という名も文左衛門と変えていた。
それから、とんとん拍子で商売は繁盛し、十年も経たぬうちに江戸で一、二といわれる豪商になっていた。だが、晩年はあまり恵まれず、享保19年(1734)、66歳のとき、木場の小さな家で、寂しく息を引き取ったそうじゃ。
いま、湯浅町の紀文堂には文左衛門の位牌が祀られ、かたわらに、「紀伊国屋文左衛門生誕之地」の標柱が建てられている。そして、近くの勝楽寺では毎年4月24日の命日には、文左衛門の法要が営まれている。
(八咫烏)