熊野水軍
古来、熊野の海辺には多くの海民が暮らしていた。紀伊半島の南辺に位置する熊野地方は、太平洋航路と瀬戸内海航路とが出会う、列島の海上交通における要の地であり、ここに暮らす海民のなかには交易活動などを通じて、力を蓄える者もあった。
永久2年(1114)8月には、「南海道の海賊、近日乱発す、諸国運上を盗み取るものなり」として、熊野別当・同俗別当らに対して、その取り締まりが命じられている。ときには、「海賊」ともなった海民たちは、このころまでには熊野三山のもとに緩やかに従属するようになっていたのである。
平氏政権が成立すると、三山の傘下で比較的自由な活動を保証されていた海民たちをめぐる状況にも変化があらわれる。平家の本貫地である伊勢と、その主要な勢力基地である瀬戸内とに挟まれた熊野地方に、清盛の強力な支配がおよび始める。紀伊は平家の知行国となり、やがて「平相国禅門慮掠之地」といわれるに至る。
治承寿永の内乱のなかで、こうした平家の強圧的な支配に反発する海民を組織し、水軍として編成したのが、21代熊野別当となる湛増である。湛増は、別当家の傍流田辺別当家に生まれた。別当家の嫡流は、新宮別当家である。
湛増は、三山におけるその傍流たる地位を脱しようと、治承4年(1180)8月半ば、諸国源氏に先駆けて反平家の挙兵に踏み切った。しかし、当初の軍事行動は必ずしも順調には運ばなかった。緒戦こそ鹿ヶ瀬峠(有田・日高郡境)以南の軍事占領を果たしたものの、弟湛覚の逆襲にあい、当時の別当範智の応援も得られず、この年の11月ころには、息子を人質に差し出し、いったん降伏の姿勢を示している。
翌年に入ると、湛増は作戦を転換し、平家の本拠地である伊勢・志摩方面に、主として海上から攻撃を仕掛ける。この軍事作戦の主力となったのは、平氏政権による支配強化に反発する海民らであった。ここに熊野水軍が成立する。伊勢・志摩方面に水軍を展開し成果をあげることによって、湛増は次第に三山における政治的主導権を掌握していった。10月には、次期別当の最有力候補と目されていた新宮別当家の正嫡行命が、熊野を脱し平家のもとに亡命を企てている。この段階で、熊野には湛増の独立政権が誕生したのである。
元暦元年(1184)10月、湛増は、源義経の軍に合流する。一の谷の合戦以後、源氏方から湛増への調略が進められ、それを受けての行動であろう。翌月には、義経の水軍として金剛童子旗に示し、若王子の御正体を乗せた兵船200遭艚を連ねて壇之浦に出陣し、平家を滅ぼしている。この活躍は、湛増とその水軍の存在感を大きくアピールする機会となった。
ちなみに、出陣を前にして湛増が新熊野社(現闘鶏神社)の社頭で、赤鶏と白鶏を闘わせ、源平いずれにつくか神意を尋ねたとする挿話は、「平家物語」(壇ノ浦合戦の事)の冒頭に置かれている。熊野水軍が三山の神の兵としての性格を持ち、その帰属が軍事的な意味でも精神的な意味でも戦いの勝敗を決したことを物語っている。
(「南紀と熊野古道 (街道の日本史)より」)
(八咫烏)