紀州みかんが江戸市場を席巻した!
高校を卒業し、新宮を出てから50年間いろいろな土地に住んで暮らしたが、どこにいても毎年、故郷の母親から送られてくるのはみかんだった。オレンジの自由化以降、アメリカからはみかんとは違う味の「オレンジ」が入ってくるし、ぽんかんやデコポンなど様々な種類の柑橘類を食べてきたが、やはり紀州の温州みかんが懐かしい。しかし、郷土の名産品である紀州みかんについて、今まで深く考えたことがなかったので、少しだけ調べてみたい。
紀州みかんは紀伊国屋文左衛門の名とともに有名であるが、その起源については諸説がある。一説には永享年間(1429-41年)に有田郡糸我荘(現有田市)に橘が自然に生育し、文正年間(1466-67年)に、この種を山田に植え、やがて近郷に広まったという。慶長6年(1601年)の検地帳によると、伊都郡の村々には数本ずつ、有田郡の村々では、十数本から三十数本があったことがわかる。
江戸に初めて出荷したのは寛永11年(1634)に有田郡滝川原村の藤兵衛がみかん400籠を送ったことに始まる。当時の江戸には伊豆・駿河・三河・上総からみかんが送られていたが、有田みかんは最も評判が良かった。それは有田みかんが甘さと酸味を兼ねそなえ、色も形も群を抜いていたためであった。そのため、翌年には、2000籠を送り、みかんの栽培は有田郡や海部郡にも広がり、明暦2年(1656)には5万籠、元禄年間(1688-1704)には30万籠、享保年間(1716-36)には50万籠が江戸に送られるまでになった。
江戸への出荷量増加により、販売方法が組織化され、生産地の各村では組株を設け、有田川河口の北湊に集荷し、ここに藩の蜜柑方会所を置いて統制した。また、みかんの代金は藩の為替方を通じて蜜柑方に送られ、そこから荷親を通じて生産者に渡された。このように紀州のみかんは、紀州藩の保護と統制のもとで特権を与えられ、紀州の蜜柑船に他国の船は航路を譲り、荷揚場では紀州家御用の大提灯が立てられていたという。
紀州みかんは、他地方のみかんと比べて品質が良く、美味であるうえに藩の力を背景に全国的に発展し、「沖の暗いのに白帆が見える あれは紀の国蜜柑船」と謳われるまでになった。