ペリーより早く日本に寄港した米国船があった!
寛政3年(1791)4月4日、アメリカの商船レディ・ワシントンとグレイス号の2隻が、紀州の大島樫野浦に寄港した。ペリー提督が来航する62年も前である。
紀州藩の記録では、アメリア船は中国との交易船で、たまたま風浪に遭って大島に漂着、4、5日の間に天候に恵まれれば直ちに退去することや船長名を「堅徳力記」と記している。堅徳力記とはジョン。ケンドリックのことで、彼はアメリカの太平洋西海岸での毛皮貿易を最初に手がけた人物として有名である。
レディ・ワシントン号の大島寄港については、日本側の資料では漂着ということになっているが、実態は宝暦7年(1757)に清の乾隆帝によって中国で唯一の貿易港に認定されていた広東貿易に参画するとともに、日本との交易も視野に入れられていた。しかし、日本側の鎖国政策の頑なさを認識したためか、日本市場の開拓を断念して、早々に立ち去っていった。
レディ・ワシントン号の乗員と地元住民との交流については、「紀南遊嚢」という史料に、村人たちが釣り船に乗って、異国船を見に行ったことや、乗員たちが彼らを船内に招いて飲食させ、紙を与えるなどして楽しんだことが記されている。
また、同署には、レディ・ワシントン号とは別の二隻の異国船が太地沖で鯨船の者を招き、船と銛を写生したことなども記され、紀州の漁民たちが異国船と相互交流していたことがわかる。この時は、紀州藩に訴えることも報告もしていない。それは、異国船と関わりを持ったことが知れると、取り調べなど面倒なことになることを恐れたからであろう。
しかし、日米の公式の交流は、それから半世紀以上も後のペリー艦隊の来航まで行われなかった。
八咫烏