津観音を訪れた後、いよいよ、この旅でもっとも行きたかったところ、津城跡に向かう。津駅前のバスに乗り「三重会館前」で下車、信号を渡り郵便局を右に見て3分ほど歩くと左側に津城跡が見えてきた。
津の古称「安濃津」は、平安時代から伊勢国の政治・経済の中心地であり、「日本三津」の一つとして貿易港としても栄えた。津城は、戦国から江戸時代にかけて伊勢国の政治・軍事・文化の中心を担った名城であり、築城技術の粋を集めた城郭として知られている。
津城は、築城技術・城下町形成・地域文化の融合が見られる貴重な史跡であると聞いている。この城跡の見どころとしては、復元された隅櫓と本丸跡、高虎の銅像、 高山神社、石垣の積み方の違いなどが挙げられるが、この中で一番興味を惹かれるのは石垣の積み方の違いである。小雨降るなか、わくわくしながら見て廻ることに。津城の石垣は、築城時期ごとの技術的変遷を反映しており、野面積みから打ち込み接ぎ、切り込み接ぎへと進化した様子が見て取れる。
起源と戦国時代の築城
津城は元々「安濃津城(あのつじょう)」と呼ばれ、永禄年間(1558〜1569)に長野氏の一族・細野藤光が安濃川と岩田川の三角州に砦を築いたのが始まりである。天正8年(1580)、織田信長の弟・織田信包(のぶかね)が本格的な城郭として整備し、石垣や堀を巡らせた堅固な構造を持つ城に発展させた。
江戸時代の大改修と藤堂高虎
関ヶ原の戦い後、築城の名手・藤堂高虎が伊予今治から移封され、慶長13年(1608)に津城へ入城。彼は石垣の改修、堀の拡張、櫓の新設などを行い、津城を近代城郭へと生まれ変わらせた。高虎は城下町の整備にも力を入れ、参宮街道を城下に引き入れ、河川を活用して津の町の発展を促した。その後も、 藤堂家は津藩主として、城下町の整備だけでなく、文化・教育・産業の振興にも貢献。津藩は和算や蘭学などの学問にも力を入れ、知的文化の拠点となった。
明治4年(1871)の廃城令により建物の多くは失われたが、石垣や堀の一部は現存しており、現在は「お城公園」として整備され、市民の憩いの場となっている。津城跡は三重県指定史跡であり、続日本100名城にも選定され、春には桜が咲き誇り、藤堂高虎の銅像や復元された隅櫓が往時を偲ばせている。
石垣の積み方の種類
津城では、築城者や改修時期によって異なる石垣技術が用いられた。以下に代表的な積み方とその特徴を紹介しよう。
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大天守台の算木積み
寛文期の改修時のもの。
隅部を真っ直ぐに積むきれいな算木積みが見られる。
大天守台の大きさは、南北16m、東西14mあった。 |
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本丸と西の丸の接続部
石垣の積み方の違いがはっきりと分かる場所。
左側が打ち込み接ぎ、
右側が明治以降に積まれた谷積み(落とし積み)
積み方の違いがはっきりと見て取れる。 |
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埋門(うずみもん)
火災に遭ったときに本丸からの脱出口として、寛永6年(1639)に造られた。出たところにある幅約4mの犬走を回って東多門櫓・太鼓櫓下から脱出できた。
東側は野面積み、西側は打ち込み接ぎ、両隅部は算木積みとなっている。 |
このように、津城の石垣は、築城時期ごとの技術的変遷を反映しており、野面積みから打ち込み接ぎ、切り込み接ぎへと進化した様子が見て取れて楽しい。
藤堂高虎の築城技術
高虎は全国の築城に関与し、石垣技術の革新に貢献。津城でも、彼の経験が反映された石垣が見られる。特に、石材の選定や積み方の工夫により、地盤の弱い三角州でも安定した構造を実現した。
石材の種類と加工法
津城では地元産の花崗岩や安山岩が使用され、時代が進むにつれて加工精度が向上。石垣の勾配や排水性も考慮され、城郭としての防御性と美観を両立させた。
石垣から読み解く築城の歴史
津城の石垣は、築城の順序や改修の痕跡を物語っている。本丸から外郭へと築城が進むにつれ、積み方も進化しており、石垣を見ることで「歴史の流れ」を感じとることができる。津城を訪れる際は、石垣の積み方や石材の加工痕に注目すると、築城者の技術と時代背景がより深く理解できよう。
| 石垣の積み方の種類 |
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1. 野面積み(のづらづみ)
– 時期:戦国期〜安土桃山期(16世紀後半)
– 特徴:自然石をほぼ加工せずに積み上げる方法。
隙間が多く、見た目は粗野だが排水性に優れる。
– 津城での例:織田信包による初期築城時に使用された とされ、本丸周辺の古い石垣に見られる。
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2. 打ち込み接ぎ(うちこみはぎ)
– 時期:安土桃山期〜江戸初期
(16世紀末〜17世紀初頭)
– 特徴:石材の角を少し加工して密着度を高めた積み方。野面積みに比べて安定性が向上。
– 津城での例:藤堂高虎による改修時に多用され、二の丸や三の丸周辺に見られる。
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3. 切り込み接ぎ(きりこみはぎ)
– 時期:江戸初期以降(17世紀前半〜)
– 特徴:石材を精密に加工し、隙間なく積み上げる高度な技術。見た目も美しく、耐久性が高い。
– 津城での例:三の丸の後期改修部分に見られ、藤堂家の築城技術の粋が反映されている。
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4. 算木積み
石垣の角を構築する際に、長方形の石材を交互に直角に組み合わせる技法。長辺を横方向に置いた石と、縦方向に置いた石を交互に積み上げる。石材同士がしっかりと噛み合い、構造的に非常に安定し、整然とした美しい外観で、権威を示すことができる。名称は、中国から伝わった計算具「算木」(細長い棒状の計算道具)に形が似ていることに由来する。
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穴太衆
さて、このような美しい日本の城が築かれてきた歴史のなかには、忘れてはならない存在がある。それは石垣づくりのプロ集団「穴太衆」である。穴太衆は、日本の城郭や寺社の石垣築造を専門とした石工集団で、日本の石垣技術の発展に大きく貢献した技術者集団である。
もともとは比叡山延暦寺の寺院建築に携わる石工集団で、延暦寺の石垣や石段、基壇などの石組み技術を磨いた。寺院の土木工事を通じて高度な技術を蓄積し、戦国時代〜安土桃山時代に大いに発展した。織田信長の安土城築城(1576~) は穴太衆の技術が本格的に城郭建築に投入された最初期の例である。
信長の後、豊臣秀吉の城郭建築にも多数参加し、最盛期(江戸時代初期)には、江戸幕府の下で全国の城郭建築に従事した。徳川家康の江戸城、名古屋城、駿府城など主要な城の築城にも参加し御用石工として幕府や大名に重用された。
尚、現在も、粟田建設など穴太衆の伝統を継承する業者が存在し、熊本城震災復旧やその他文化財の石垣修復工事などで活躍している。
~つづく~
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