私のふるさと~奈良県五條市西吉野町1

1. はじめに
 私の故郷は、奈良県の南側、旧西吉野村(現在は五條市西吉野町:写真1)で、五條から新宮に通じる国道168号線(写真2,3)を少し入ったところ、昔は秘境と言われた十津川の入口に当たる。この先、天辻峠を越え大塔村を過ぎると面積では日本一大きな村十津川村に至り、更に南下すると太平洋に面した新宮市に出る。この国道は、地域高規格道路としてトンネルや橋が整備され今はほぼ直線の立派な道路になっているが、車の通れる道が和歌山まで繋がったのは昭和34年のことで壮年期の紀伊山脈はあちこちに深い谷をえぐり長らく人馬不通の地であった。

 谷を渡るには、後には吊橋ができるがこの環境が物資の移動を阻んできた。明治22年の台風であちこちの山が崩落、川を堰き止めて自然のダムができ、それが決壊して大水害、甚大な被害を受けた。結局600戸が村を捨てて北海道に移住、新十津川村を開拓したと言う有名な話がある。戦後漸く車が通れるようになった道は山襞に沿ってクネクネと曲がり山側は落石、谷側は断崖絶壁、危険が一杯の道路で車が対向できる幅も無く、その後も台風や大雨が来る度にしばしば通行止めになった。然しこの道は紀伊半島を縦断する幹線道路で、西熊野街道或いは十津川街道と呼ばれ古くから歴史の舞台にも登場する。村は道路と共に年を重ねてきた。先ずはこの地域の歴史を振り返る。

2.地域の歴史

歴史に登場する十津川街道は、旧くは「神武の東征」から始まる。大阪湾から河内平野を通り生駒を越えてヤマトを目指したがに阻まれ、「日に矢を引く方向からの攻めが良くない」と紀伊半島南端を迂回、熊野から北上し道無き道をヤタガラスに導かれ橿原に到達した。でながら橿原に都を定めたのは、近くにを産する山があったからと聞いたことがある。

168号線沿いに流れる我が村の川も「」で下流には丹生神社もある。丹生は朱を採る為の硫化水銀で当時は金銀より重宝されたし、長寿の薬とされ秦の始皇帝も飲んでいたと言う。(実際は中毒になって寿命を縮めることになるのだが…。)

次いで登場するのがの乱、天武天皇が近江朝を倒す時これを助けて大いに武勲を上げその功で以来明治までずっと免租されてきた。日頃猪を追いかけて鍛えた足腰と弓の鍛錬の賜物であろう。以来「ご赦免所

として中央権力に干渉されない自治を享受してきたが、実際は山深い土地で米が取れる様な田んぼが無かったからで、全国隅々まで竿を入れたあの太閤検地の時でさえ収奪の対象に上がることは無かった。但し手前の大塔村は徳川時代に搾り取られた記録があるので、隣の我が村も同じ様に絞られていたのだろう。

十津川は人の数より猿の方が多いと言われ一旦ここに飛び込めば権力の及ばない空白地帯、昔から犯罪者やお尋ね者が逃げ込んで来た。維新前の混乱期、人斬り以蔵や坂本竜馬も来たと言うし、十津川の民俗資料館には龍馬が地元の青年中井昭五郎に贈った刀と手紙が展示されている。

十津川とは「遠つ川」に由来し、吾妻鏡でも頼朝の追捕を受けた義経が僧侶から「遠津河

に逃げる様勧められているし、平安末期の保元の乱の時も弓の精兵な「十津河

のことが記されている。南北朝の乱では南朝の側に加担。57年間も南朝の御所となった堀家は藤原実方の末裔で、我々の村より1つ五條寄り、梅林で有名な賀名生にあり、重臣北畠親房の墓も近くにある。

この様な事情から代々天皇に対する忠誠心が強く、百姓に苗字は無かった時代から苗字帯刀を許され全村民が士族になり十津川郷士と呼ばれた。その自尊心を逆用されて天誅組の乱などに巻き込まれてしまう。天誅組の変とは、勤皇の吉村寅太郎等が五條代官所を襲い、代官の鈴木源内を桜井寺で斬首、五條御政府を名乗るが一夜にして形勢が逆転、幕府から追討される身となり十津川に逃げ込んで最後は東吉野村で壊滅する事件である。五條は徳川御三家の一つである紀州藩の参勤交代の要所であり江戸時代の早くから天領となり代官所が置かれ十津川を含め7万石としてこの辺りを支配していた。天誅組が一時十津川に逃げて本陣を置いた鶴屋治兵衛の屋敷跡が今も天辻峠を上りきった坂本に残っている。

~つづく~

土谷重美

 

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