私のふるさと新宮市~歴史4 物流革命

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歴史 4 物流革命

平安時代、日本における大消費地といえば、京都しかなかった。京都の人口を養うための海港が敦賀であり、北陸沿岸の米その他の物資が海路敦賀に集められた。その後、荷は馬の背に乗せて背後の山塊ひとつを越え琵琶湖で船積みされて湖上を大津まで送られ、再び荷駄で逢坂山を超えて京都まで運ばれた。この経路が上代以来、はるかに下って江戸時代まで変わることがなかった。

江戸時代初期、幕府は河村瑞賢に日本海の出羽の米を江戸へ運ぶ航路の研究を命じた。瑞賢は日本海沿岸の諸港を踏査し、馬関(下関)まわりで瀬戸内海、兵庫を経て熊野灘をまわって江戸に至る航路の開発に成功した。これがいわゆる「北前船」の誕生である。

大坂から江戸へ行く太平洋航路の船は、その航路が開かれて以来、「菱垣廻船」と呼ばれる千石、千五百石の大船が走っていた。積み荷の中心は米で、他に上方や四国の商品(醤油、阿波の藍、ろうそく)などで大いに繁盛していた。そのうち、現在の兵庫県灘地方の樽に詰めた酒を専門的に取り扱うために独立して組織されたのが「樽廻船」だった。樽廻船の出現は享保15年(1730)のことだった。

大坂と江戸を行き来する船は途中にある新宮の地、池田港に必ずといってよいほど立ち寄った。池田港は大坂-江戸航路の中継港のひとつとして大いに発展した。また、当時、熊野で生産される木炭の8割は備長炭で新宮・池田港から積出され、江戸の大名屋敷や料理屋などで珍重された。

当時、江戸という世界有数の大都市が、その後背地で商品生産ができないために、大人口をかかえて常に商品に飢えていたのだ。江戸では大小の普請が絶えまなく行われており、材木が常に不足していた。紀州みかんを太平洋航路で江戸に運んで巨万の富をなした紀伊国屋文左衛門も元々は材木商を営み成功していた。

江戸は中期になると都市人口が百万を超え、世界でも数少ない大消費地でになっていた。そのうちの約50万は大名、旗本、およびその家来たちという人口構成で、それらの消費をささえるために商人や職人が集まり、江戸にさえ出ればなんとか食えるという状況だった。

江戸初期は、醤油すらつくれなかった。やがては紀州人たちが銚子へ行って、江戸の消費のための醤油製造を始め、現地生産が始まったのは1646年のことといわれている。また、これも中期までのことだが、菜種は作付けできてもそこから搾油して菜種油をとるということ産業能力が乏しかった。

綿や木綿あるいは紙も同じであり、塩ですら、鋳物釜で煮る赤っぽい塩ができても商品として白さを要求されるものはできなかった。酒ばかりは関東でも生産できたが、火山灰地で水質がよくなかったために、旨い酒は上方から運ばざるを得なかった。こうして灘の名酒は評判をとった。

巨大な胃袋を持った江戸が上方から、贅沢物資でなくごくふつうの日常必需品をも仕入れ続けることで商品経済が成り立っていた。江戸期の菱垣廻船や樽廻船という広域流通が発達したのには、そのような背景があった。もちろん、贅沢品も上方から下り、そのうち塗り物は海上輸送によったが、絹の反物類は陸路が多かったようだ。商品の性質上、海水をかぶることが嫌われたのだ。こうして、大消費地の需要を賄うために、東海道の陸路を通らず、効率よく大量に運ぶことができる航路が利用された。

それまでの日本の東西幹線ルートであった陸路・東海道と比べて格段に速く、しかも大量の物資輸送が可能にっなったこの海のルートは、まさに「海の新幹線」であった。しかし、波の荒い黒潮の海に漕ぎ出して行くことは大きなリスクを背負うことでもあった。実際、多くの若い船乗りが命を落としたことも伝えられている。

〜つづく〜

西  敏

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