熊野ゆかりの医家列伝~②下平用彩

下平用彩(1863-1923)
用彩は、文久3年(1863年)5月16日、新宮仲之町に生まれました。父秀作は医師で、水野氏に仕えました。明治維新後、廃藩置県により新宮藩が消滅、用彩の9歳のころに父とともに尾呂志村(現三重県南牟婁郡御浜町尾呂志)へ帰っています。

筒井八百珠とは家も近く、同級生です。八百珠の項で記したように、三重県医学校から東京帝国大学医科大学へ進学、卒業後、山梨県立病院長となり、その後、第四高等学校(現金沢大学)教授と石川県立金沢病院の外科部長に任ぜられます。

明治38年(1905年)には、金沢病院長となり、翌年、ドイツ・オーストリア・スイスに文部省より派遣され、外科の研究や細菌学の研究に従事します。明治43年(1910年)帰国して金沢病院に復帰、2年後、学位論文を発表、医学博士となります。大正9年(1920年)に金沢病院長となり、大正12年(1923年)2月23日没、61歳でした。

明治30年(1897年)、開業医の小沢鹿十郎、杉浦建造が「地方病性腹水病について」という、腹が膨れる山梨県特有の病気について発表した論文において、用彩(当時、山梨県立病院長)は次のような付記をつけています。「・・・本病ハ恐ラク一種ノ動物性寄生虫ニ因スルモノニシテ余ハカツテ本病ノタメニ斃レタル者ノ死体ヲ剖見シテ肝臓ニ無数ノ顕微鏡的小虫卵ヲ見タルコト是アリ 医学士 下平用彩」と意見を述べています。これは現在、日本住血吸虫として知られている、寄生虫の最初期の指摘であったといわれています。

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