熊野ゆかりの医家列伝~①筒井八百珠

筒井八百珠(1863-1921)
文久3年(1863年)、新宮仲之町で生まれました。実は現在の新宮病院の隣にありました。

「筒井先生追懐談」によると、筒井家は新宮藩の剣道師範家で、代々300石を食み、仲之町に屋敷を構えておりました。父親は筒井新兵衛といって新宮でも有名な剣術家で、藩の剣道指南役でした。明治9年(1876年)9月21日、父が重い病となり亡くなったのですが、このとき「自分は、かかる場合に於いて、此の瀕死の病人の命を救ふことが出来たならば、病人自身の大いなる感謝はもとより、其の為に愁眉を開く家族の喜びは如何ばかりかであろうと思った。この刹那に於いて、自分は医者になろうと云ふ固い決心を起こしたのである」と、医者になろうとしたきっかけを書いています。

三重県医学校に入学したのは、明治10年(1877年)のことでした。「もと自分の学友であった下平用彩君が、既に三重県の医学校に入学しており、また熊野川ひとつ隔てた鵜殿村の土井稲造君と云ふ人も、近々三重県医学校の途に上ると云ふことを知り得た」と、用彩がすでに入学している学校であることが決め手となったようです。

やがて用彩とともに、三重県医学校から東京帝国大学医科大学に入学、卒業後は千葉医学専門学校を経てドイツへ留学と、よく似たコースを歩んでいます。帰国後、大正2年(1913年)に岡山医学専門学校の第二代校長に任ぜられました、当時、ストライキ」で学校・生徒の双方が不信感を抱いて荒廃していた学校を立ち直らせただけでなく、岡山大学医学部の創設に尽力し、大正10年(1921年)1月末、57歳で永眠しました。

八百珠の功績は多方面にわたりますが、新宮人が忘れてならないのが、新宮病院の創立に関わったことでしょう。西川義方の項でも詳しく記しますが、八百珠が設立に関わったことを「新宮病院七拾年の歩み」から引用します。

「その頃筒井先生は千葉医学専門学校の筆頭教授で、当時の医学生必読の「臨床医典」の著者としても有名であった。資性磊落、豪快にして敢えて辺幅を飾らず常に郷里の人々を愛し、心から親切でよく面倒を見られ、病者には入院の保証人までお引き受け下さり、先生をたよって行った病人や家族でその温かい思いやりに感激しない者はなかった。(略)

当時市内では、開業医としては松井南洋、松野信三郎、佐藤豊太郎の3名で、医療施設も、福祉事業も何一つ無く、有るのは聴診器だけ、内外科、産科、万事引受所であった。この有様を身を以って体験した筒井先生は、地方有志を集めて治病施設の急務を説かれた。それが新宮病院の胎動であった」

現在も、新宮病院は、仲之町で開業していますが、その西隣が八百珠が生まれ育った筒井家があったところです。

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