シンゴ歴史めぐり8 家康のつぶやき 織田天童藩の巻 後編

幕末に存在しました天童藩の続きでございます。

元号が明治に変わる一年前の1867年10月に、15代将軍、いや、最後の将軍の慶喜が朝廷に大政奉還しますと、薩摩・長州・土佐の新政府軍と、幕府軍の対立が表面化し、武力衝突が起こりました。その翌年の1868年のことでございます。

なお、この年は現在の暦でいう10月23日が明治元年9月8日になったのでございます。

この年は重要な年でございますので、東北諸藩を中心に時系列的にご説明いたします。

1月に鳥羽伏見の戦いで、総大将の慶喜が幕府軍の撤退を命じ、自らは大阪から江戸へ船で逃げ帰ってしまいました。

2月に新政府の攻撃目標は江戸となり、有栖川宮熾仁(たるひと)親王(1835年~1895年)を東征大総督とする東征軍が組織されました。

また、東海道以外にも中山道、北陸道にも、それぞれの地域を征討する軍が編成されました。

そして、新政府は左大臣九条道孝(1839年~1906年)を奥羽鎮撫総督、長州藩士の世良修蔵(1835年~1868年)らを参謀に任命して東北地方の制圧にも乗り出したのです。

なお、余談になりますが、九条道孝の娘が大正天皇の妃となりましたので、道孝は昭和天皇の母方の祖父、現在の天皇の曽祖父に当たるのです。

参謀役に、最初は薩摩の黒田清隆(1840年~1900年)、長州の品川弥次郎(1843年~1900年)と、それなりの人物が指名されたのでございます

しかし、二人とも『冗談じゃない』と、きっぱり断ったそうでございます。

そのため、格下で騎兵隊出身の世良修蔵に参謀が回って来たのでございます。

新政府の狙いは京都守護職を務めた松平容(かた)保(もり)(1835年~1893年)の会津藩と、江戸の薩摩藩邸焼討ち事件を起した庄内藩の討伐でございました。

奥羽鎮撫軍が設立される前に、天童藩藩主の信学(のぶみち)(1819年~1891年)は速やかに京都に来るようにと新政府に命じられておりました。

しかし、信学は病に倒れていたため、嫡男の信敏(1853年~1901年)と中老の吉田大八(1831年~1868年)が代理として上京したのでございます。

すると、新政府は天童藩に朝敵である庄内藩を攻撃する奥羽鎮撫軍の先導役を命じたのでございます。その役目は実際に藩を動かしていた吉田大八が行うことになりました。

吉田大八は京都から天童に帰ってくると、何とか庄内藩との武力衝突を避けようと奔走しました。

3月下旬に奥羽鎮撫軍(新政府軍)が海路で松島から仙台に入りました。

天童藩では信敏が父の信学に代わり藩主に任命されました。

新政府軍が庄内藩を討とうとする名目はもうひとつありました。

幕末の江戸の治安維持のために幕臣の高橋泥舟(1835年~1903年)と山岡鉄舟(1836年~1888年)を責任者とする新微組が結成されており、庄内藩酒田家はその新微組を幕府から預かっておりました。

庄内藩と新微組は市中をパトロールし、相手が旗本であろうとも違法の者は容赦なく取り締まったのでございます。

江戸には京のような過激な浪士は多くいませんでしたが、旗本の身分をかさに着て勝手なことをする不良な者たちがいたのでございます。

庄内藩と新微組の取り締まりにより、江戸の治安は回復し、庄内藩は江戸庶民の間ではヒーロー的な存在となったのでございます。

それで、『酒井なければお江戸は立たぬ 御回りさんには泣く子も黙る』とか、 『鶴が岡 松を堅固に 守るなり』と言われました。この鶴ヶ岡とは庄内藩の所在地のことで、松とは私の出身の松平家つまり徳川家のことでございます。

また、『カタバミはウワバミより怖い』とも言われました。この『カタバミ(片喰)』とは、酒井氏の家紋であったからでございます。

なお、松平家の三つ葉葵とそっくりな酒井家の家紋については、いずれお話させていただく機会があればと存じます。

さて、そんな庄内藩と新微組は薩摩による江戸内外の富商・富農への金品強奪・放火という挑発にまんまと嵌まってしまい、1867年12月に三田の薩摩屋敷を襲撃し焼き払ってしまったのでございます。

この一件により、薩摩が倒幕ののろしを上げ、翌年1月の鳥羽伏見の戦の火ぶたが切って落とされ、戊辰の役へと突入したと申し上げても過言ではないと思います。

庄内藩が、そのようにして新微組を幕府から預かりましたので羽前村山郡(山形県村山市)の柴橋・寒河江の幕府領(天領)を1868年3月に庄内藩に扶持として預けられ、庄内藩は代官と藩兵を送り込んでいたのでございます。

また、同じ頃に、薩長を中心とした新政府は、東北の幕府領は朝廷のものであるとして、こちらも役人を送り込んでいたのでございます。

庄内藩が幕府から預かり地として受領したのが3月5日、新政府が朝廷ものとして没収すると発表したのが3月26日でございました。

それで、庄内藩としては朝廷が領地として発表したのが3月であっても、昨年の年貢米は幕府のものであるという論法で、前年の年貢米2万3千表を最上川を下って酒田に運んでしまったのでございます。

政府軍としては、はるばる遠征して来て、兵糧の調達を朝廷の領地からと考えていたので、それをさらわれた形となりました。

そのような事情が重なり、新政府軍は庄内藩の討伐を仙台藩と天童藩に命じたのでございます。

しかし、天童藩も仙台藩も庄内藩との戦争は回避したいと考えており、新政府軍が柴橋・寒河江に到着する前に、庄内藩兵がそこから撤退するように使者を出したのでございます。

それが綱渡り的に上手く行き、全面対決は避けられたかのように見えました。

しかし、庄内藩が撤退したあとの柴崎・寒河江を新政府軍は接収してしまったのでございます。

この強引な新政府軍のやり方に東北諸藩は疑問を持ちました。

特に庄内藩は新政府軍の先導役をした吉田大八の天童藩に疑惑の目をむけ、藩境の警備を増強したのでございます。

新政府軍は庄内藩攻撃のため、本陣を天童から新庄に移しました。

4月24日に、新政府軍は奇襲戦法で一旦は庄内藩領に入ったのでございますが、農民からの通報により、それを知った庄内藩兵により、迎え撃たれることになりました。

庄内軍は新政府軍の侵攻を予想して、酒田の豪商である本間家からの献金で最新鋭の小銃を購入し西洋化を進めていましたので、戦術指揮も優秀であり、新政府軍を追い返してしまいました。

庄内軍の圧倒的な兵力を目の当たりにして、新政府軍は天童に撤退するしか方法がありませんでした。

庄内藩は次に政府軍の手先となっていた天童藩を攻め、吉田大八の首を取ろうと、一旦撤退した柴橋・寒河江に入り、天童藩の様子を伺っていました。

新政府軍は、天童藩を守ろうと仙台、一ノ関、八戸の各藩に出兵を要請しましたが、仙台藩と一ノ関藩は出兵を拒否し、八戸藩は距離的にとても間にあう状況ではありませんでした。

新政府軍は仕方がなく予備兵であった筑前兵とともに天童を防衛することにしました。

閏4月4日に庄内藩は天童に入り、その兵力にものを言わせ、攻めて攻めまくり、天童の町は焼け野原となったのでございます。

藩主一族は本陣が焼け落ちる前に、家臣の助けにより逃げ終えることができました。

庄内軍は天童を焼き払ってからは、長瀞・楯岡で兵を休ませて庄内へと帰って行きました。
新政府軍の道案内をしていました吉田大八は、庄内軍が帰ると庄内軍と繋がりのある現在の東根市の長瀞を焼き払い、知人宅に潜伏してしまいました。

奥羽諸藩では、吉田大八は新政府軍を先導し奥羽を戦争に巻き込んだ大罪人とし、彼の首に懸賞金を賭ける有様でございました。
庄内軍が天童に攻めかかった閏4月4日に米沢藩・仙台藩4家老の名前で、奥羽諸藩に対して列藩会議召集の回状がだされました。

閏4月11日、奥羽25藩は仙台藩領の白石城において列藩会議を開き、会津藩・庄内藩赦免の嘆願書を奥羽鎮撫総督に提出したのでございます。

しかし、この奥羽諸藩の会津藩謝罪嘆願書を参謀・世良修蔵が却下してしまったのでございます。

今までの新政府軍の横暴に我慢していた東北諸藩はこの新政府軍の却下に対し、仙台藩を中心として、薩長に対決することを決め、奥羽列藩同盟が立ち上げる原因となったのでございます。
そして、その時に世良修蔵を斬殺することが決まったのでございます。

と言いますのは、神戸から軍艦でやってきた鎮撫軍を仙台藩としては丁重にお迎えしていたのですが、公家の総督は別として、参謀としてやってきた世良修造が異常に威張っており、連れてきた軍隊がたかだか数百名で、それもヤクザまがいの連中ばかりだったのでございます。

そんな人数で数十万の兵力を持つ東北諸藩に命令を下そうというのでしたから、仙台藩はあきれて見守っていた次第です。
さらに、世良修蔵という人物が元々は士分でもなく、出身は漁師もどきで、奇兵隊という、身分にかかわらず作った軍隊の中で出世したのだということが分かってしまったのでございます。

そういう身分のものが、名のある仙台藩主に対等どころか『会津を討て』と恐喝まがいの言葉を発していたのでございます。

それで、仙台藩士の怒りが渦巻き、鎮撫軍に反抗する機運となったのでございます。

さらには、世良修蔵が、もうひとりの参謀に宛てに『奥羽を皆、敵と見て、武力をもって一挙に討伐する』と書いた密書を仙台藩士が入手したのでございます。

それで、仙台藩士は世良修蔵の暗殺実行について藩の家老の許可を得たのでございます。

閏4月20日の世良を襲撃する場所は、現在の福島市の旅籠で、秘書と二人でさんざん酒を飲み女と寝ているところを、仙台藩士と福島藩士によって踏み込まれ、捕えられ、河原で斬首されたのでございます。

会津赦免の嘆願の拒絶と世良の暗殺によって、奥羽諸藩は朝廷へ直接に建白を行う方針に変更することとなりました。

そのために奥羽諸藩の結束を、さらに強める必要があることから、閏4月23日に、新たに11藩を加えて白石盟約書が調印されたのでございます。

5月に入りますと、東北25藩の攻守同盟である『奥羽列藩同盟』が結成されました。

数日後には越後の6藩が加盟して『奥羽越列藩同盟』が結成されました。

しかし、同盟諸藩のなかには謝罪嘆願の同盟だったものが、いつの間にか攻守同盟に摩り替わっていると考える藩も多くあり、同盟は一枚岩ではありませんでした。

そんな情勢の中、天童藩も東北諸藩の仲間に入らざるをえませんでした。

しかし、その受け入れの条件として、吉田大八の身柄の引き渡しの要求をされてしまいました。

吉田大八は藩主に迷惑がかかるのを恐れ、行方をくらましておりましたが、天童藩の苦しい事情を知り、東北諸藩のリーダー格でありました米沢藩に自首したのでございます。

6月に、吉田大八は天童藩へ引き渡され、18日に現在の舞鶴山側の観月庵で『絶命の辞』と『辞世の句』を書き、妻と子を残しそして見事切腹したのでございます。享年37歳でございました。

辞世の句は『 我のみは 涼しく聞くや 蝉の声 』でございます。
この吉田大八(本名は守隆)を祀る素道軒守隆祠(現在の天童護国神社)が1871年建立されております。

そして、世良修蔵の死をきっかけとして、新政府軍と奥羽越列藩同盟軍との戦争が始まる事になりました。しかしながら、東北諸藩の意識はバラバラで、あくまで薩長に対決すると強気だったのは、薩長から憎まれている会津藩と、庄内藩でございました。

7月26日まず三春藩が降伏し、28日には松前藩が、29日には二本松城が落城しました。

8月6日相馬中村藩が降伏しました。

9月4日に米沢藩が、12日には仙台藩と相次いで降伏していったのでございます。

その後、15日福島藩、上山藩、17日山形藩、18日には天童藩、19日にはとうとう会津藩が降伏し、20日盛岡藩、23日に庄内藩と主だった藩が続々と降伏し、奥羽越列藩同盟は完全に崩壊したのでございます。

5月に同盟が出来て、すぐに裏切って新政府軍に寝返ったのが、大藩の秋田藩でございました。

仙台藩から『秋田藩の約束はどうなった?』と送った使者を切り殺してしまう始末でございました。

この事件により明治時代に仙台人は秋田人に対して、相当な怒りを持っていたようでございます。

 

この東北地方での戊辰戦争は、9月に会津若松城の松平容保が降伏した時点で終わったと言って良いのではと思います。

しかし、雄藩であった庄内藩はどの戦場でも勝ちっぱなしで一切敗れることなく降伏したということで、後の東北諸藩の賞罰に関しても特別に扱われました。
会津藩は23万石から3万石に減封の上、青森・下北半島の斗南藩という草木も生えぬ土地に転封されて厳しい暮らしを余儀なくされました。

長岡藩は7.4万石から2.4万石に、仙台藩は62万石から28万石に減封されました。

しかし、庄内藩は17万石から12万石の減封で済み、さらに、西郷隆盛が庄内藩に好意を示し、そのままの土地にいることを許されたのでございます。
庄内藩士はそのことで、西郷隆盛を尊敬するようになり、両藩で留学生を交わすようになり、西郷が西南の役を起こした時には、その中に庄内藩士もいたと言われます。

天童藩は石高の一割の2千石の減封で済みました。

新政府の処断により、藩主の信敏は弟の織田寿(す)重丸(えまる)(1866年~1871年)に家督を譲って隠居することを余儀なくされたのですが、寿重丸は幼少であったため、新政府の計らいで信敏が再任して藩主(藩知事)となりました。

1871年(明治四年)7月に廃藩置県により天童藩は廃藩となって天童県となり、同年8月、山形県に編入されたのでございます。

藩知事となった信敏が東京の私邸内に『織田社』として祀っていた織田家始祖の社に1869年(明治2年)に神祇官より『健(たけし)織田社(おりたのやしろ)』という神号が下賜され、翌年に天童市の城山(現在の舞鶴山)山頂へ分祀したのが、現在の『建(たけ)勳(いさお)神社』でございます。

以上、私が知りうる限りの天童藩についてのお話でございました。あれっ、そこに坐っていらっしゃるのは、先日お会いした東根市にいらした方ですね。

つづく

丹羽慎吾

 

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