シンゴ歴史めぐり6 家康のつぶやき 小牧山城の巻

私が大阪城で冬と夏に戦ってから400年余を数えます。しかし、築城450年以上を迎えた城もございます。
それは、愛知県の小牧山城なのでございます。小牧と言えば皆さまは小牧長久手の戦いを思いおこされると存じますが、小牧山城はそれよりも20年前の1563年に信長様が美濃攻略の為に尾張の首府を清洲から小牧に移した時に建てられたお城でございます。信長様は稲葉城、今の岐阜城でございますが、そこに移るまでの4年間を小牧山城で過ごされました。
その信長様が考えられた小牧山城の大手道や家臣の住居などのお城のレイアウトは、その後の岐阜城、安土城、そして秀吉様の大阪城へと続いていくのでございます。
そして小牧山城は、先ほど申しました小牧長久手の戦いで私が秀吉様と合戦をした時に、私が急遽改修したお城でもあります。
しかし、その信長様の築かれた小牧山城や小牧長久手の戦いにつきまして、ご存知の方々がだんだんと少のうなってまいりましたので、築城450周年を迎え、ちょっとお時間をいただきお話を致したく存じます。
信長様は、1560年の桶狭間の戦いで今川氏に勝利されますと、すぐに美濃国の斉藤氏の攻略に取り掛かられました。
そのために尾張の信長様は東に接する私の国の三河で今川や武田の力を防いでおく必要があり、私もやっと今川から独立し国を固めて行く必要がございましたので、信長様の協力を得る必要がございました。それで、桶狭間の戦いの二年後の1562年に信長様と清洲城で同盟を結んだのでございます。これが清州同盟でございます。
そして、信長様は全力で美濃を攻める体制をつくるために、なんと本拠地を清洲から移すことを決められたのでございます。
その新しい本拠地に選ばれましたのが、清洲から北東に11km離れ、濃尾平野の中の丘のような小牧山でございました。
小牧山は標高85m、比高はわずか65mでございます。
比高と申しますのは、その山の麓から頂上までの高さでございます。
信長様は重臣であられた丹羽長秀様(1535年~1585年)を責任者にされ山頂に城を築かれ、1563年のその年には主要な兵力をそっくりその城に移されたのでございます。
しかし、この小牧山城への移転には、信長様のお知恵を示すエピソードがあるのでございます。

清洲からの北方への移転先がまだ決まらない時でございました
家臣の方々が住み慣れた清洲からの移転そのものに、不満をもっていることをお知りになった信長様は、最初は清洲から北東18kmの二宮山(標高292m、比高230m)を移転先にすると発表されたのでございます。
すると、家臣の方々は生活に便利な清洲から、二宮山への引越しは困ったことであると不満をつのらせ、反対をする方々がおおぜい出てまいったのでございます。
すると、信長様は反対意見が十分に出たころを見計らって、家中の意見を吟味した結果として、移転先を二宮山から小牧山に変更すると申し渡されたのでございます。
すると、今度はほとんど反対意見もなく、皆が小牧山への移転に同意したというわけでございます。
これに似たようなエピソードは世界のあちこちに多数ございますが、約150年間にわたって国府として栄えて参りました清洲から他の地へ移ることは、人々に大きな不安を与えていたのを読み切った信長様の心理作戦の勝利であったと存じます。家臣の方々が小牧山で安堵した理由として小牧山の近くを清洲に通ずる五条川が流れていたこともあったようでございます。
実は私も秀吉様から何もない荒涼とした江戸を任された時に、反対する家臣を説き伏せるために信長様のやり方を応用させて頂きましたことを申し添えます。
話は先走りますが、他のエピソードと致しまして、小牧山城の築城祝いの時に京都の連歌師であった里村紹(じょう)巴(は)(1525年~1602年)が呼ばれ、祝儀の歌百韻興行が催されました。
その時に、信長様から発句を求められた紹巴が『あさ戸あけの麓は柳さくら哉』と詠みますと、信長様が『この発句は、どえりゃー下手じゃー。新しい城の竣工に“あける”というのは不吉じゃー』と機嫌を悪くされたとのことです。
すると、紹巴は面目を失い、夜にもかかわらず京都へ逃げ帰ってしまったとの話も残っております。
また、余談ではございますが、この紹巴は、光秀様の謀反を知っていたといわれる人物でもございます。と言いますのは、光秀様の信長様殺害の前の月の1582年5月に京都の愛宕山で開催された百韻興行に主賓の光秀様とともに紹巴も参加しておりました。
その時の発句は光秀様の『ときは今 あめが下しる 五月かな』、第二句は主催者の威徳院行祐の『水上まさる 庭の夏山』、そして、第三句が里村紹巴の『花落つる 池の流を せきとめて』でございました。

光秀様の発句の『ときは』は光秀様のご出身の『土岐』を、『雨が下』は『天が下』を意味し、光秀様がご主人の信長様を、その五月に殺害するという意図を表したと言われております。
そして、これに対しまして、紹巴の句の『花落つる 池の流を せき止めて』は二つの解釈が出来るそうでございます。
ひとつは『花』は信長様、『落つる』は死ぬ、『池の流れ』は朝廷で永く受け継がれていた律令制のことで、朝廷が治める国家秩序を信長様が滞らせているので、信長様を討つのは罪悪ではない、よって、今こそやるべきだと言う意味でございます。
もう一つの解釈は、『花』は光秀様の計画、『落つる』は失敗、『池の流れをせきとめて』はおそらくこの計画は失敗に終わるから、思いとどまるように、という意味にも取れるとのことでございます。
紹巴はこの光秀様の陰謀を信長様に伝えなかったために、後に秀吉様から責問を受けたとも伺っております。

余談が長くなりました。話を小牧山城にもどします。
皆様は、小牧山城を信長様が美濃攻略を行うための短期的な要塞であり、土塁による仮住まいの城であったと考えておられるようですが、そうではございませんでした。
信長様の小牧山城は麓から山の中腹まで真っ直ぐな大手道がつくられておりました。
そして、その大手道の両側には、ご家来衆のお屋敷がございました。
この信長様のレイアウトは、先にも申し上げましたが、次に移られた岐阜城、安土城にも引き継がれております。
これは信長様が主君を頂上にしてその回りに部下を配置するという基本構想を持っておられたことを示すのでございます。また、頂上の主郭は四方を石垣で囲んだ本格的な城でございました。
その石垣は小牧山に産出する堆積岩の一種であるチャートでございました。
さらに山のふもとには、清洲から移転させた城下町が形成されたのでございます。
ですので、現在の小牧市にも当時の清洲にあった町名がまだ残っておるのでございます。
例えば、紺屋町、鍛冶屋町、伊勢町、京町などでございます。
そして信長様は小牧山城を本拠地として美濃への侵攻を繰り返し、ついに1567年9月に、稲葉山城を落とされ、当時、井口(いのくち)と呼ばれていた町を中国の故事にならい岐阜と改め、移って行かれたのでございます。これにより、小牧山城は約4年間の役目を終え、廃城となったのでございます。

そして、15年後の1582年6月に信長様が無念の最期を遂げられ、清洲会議で秀吉様(1536年~1598年)と柴田勝家様(1522年~1583年)の決裂が決定的なものとなりました。
秀吉様は信長様の孫の三法師様を跡取りとされ、次男の信雄様(1558年~1630年)をその貢献者とされたのに対し柴田様は3男の信孝様(1558年~1583年)を担がれたのでございます。
そして翌年に近江の賤ヶ岳の戦いにおいて、秀吉様は柴田様に勝利されたのでございます。
その後、3男の信孝様も自害されました。ちなみにその場所は源頼朝、義経ご兄弟の父上の源義朝様(1123年~1160年)が討たれた知多半島の野間でございます。
信孝様の辞世の句は『昔より 主を討つ身の 野間なれば 報いを待てや 羽柴筑前』でございました。この辞世の句の解釈について私は何も申し上げることはございません。はい。
一方で、信長様の次男の信雄様と秀吉様の関係も良くはありませんでした。
といいますのは秀吉様の時代が来ましても、信雄様は織田家の世が続いており、秀吉様は織田家の単なる家来と思っておられたのでございます。
そのような状況が耳に入ってきますことは私にとっては願ったり叶ったりでございました。
実は清洲会議で相続の情報を得ていました時からそのようなことは想定内でございました。
秀吉様は私より年長ではございますが、私の同盟者である信長様の単なるご家来にすぎません。ご家来の中でも、柴田様や丹羽様よりも、もっともっと下のご家来でございました。
秀吉様が名乗られた羽柴姓は、このお二人の重臣の名前を頂いているのでございます。はい。
秀吉様は、信長様の後継者を名乗ってはおられましたが、四国の長曽我部、九州の島津、関東の北条と、まだまだ、秀吉様を認めない方々が多くいたのでございます。
私としましても、その当時は天下を取ることなどは、まだまだ考えてもおりませんでした。
ただ、私の三河に接する尾張の信雄様が秀吉様の力を借りて、攻めてこないようにと考えるばかりでございました。
それで、清洲会議の翌年の正月に、信雄様を岡崎城に密かにお呼びして、私が亡き信長様に如何に恩を受けてきたか、信雄様が困った時にはいつでもお力になりますよなどと、お話しながら、お酒を酌み交わしたのでございます。すると信雄様は酔った勢いからか秀吉様のことを『あの織田の奴隷(やっこ)めが』と叫ばれたのでございます。その時私は『しめたっ』と心の中で叫んだほどでございます。
そして、秀吉様が柴田様を滅ぼされた翌年の正月に、安土城に織田家の家臣の方々が集まり、三法師様に年賀の挨拶に伺った時でございます。その時に秀吉様と信雄様の仲は最悪の事態になったのでございます。
と言いますのは、『秀吉が信雄を殺そうとしている』というデマが出回ったのでございます。
すみません、私がめずらしくシャレを口走ってしまいました。
しかし、そのデマは、実は秀吉様が自らながした策略なのでございました。
それが信雄様の耳に入りますと、信雄様はご家来の面前で『猿めが、この私を誰だと思っているのか』とののしったのでございます。と、聞いております。
すると、今度は秀吉様が、この一言を取り上げて、『信雄が秀吉を殺そうとしている』という情報を流したのでございます。現在の大国同士のフェイクメールの情報戦とそっくりでございますね。
その時には信雄様の回りには信雄様を支えるものがいませんでしたので、信雄様は居城の伊勢長島城に駆け戻られたのでございます。
そうした出来事は、私の張り巡らした情報網から時々刻々と入って来ておりました。
その後に信長様の乳兄弟であった池田恒興様(1536年~1584年)の仲介により信雄様と秀吉様は会談されたのでございます。しかし、その直後に信雄様の3家老が秀吉様に内通したため、信雄様はその家老たちを殺害してしまわれたのでございます。すると秀吉様と信雄様は戦闘状態となり、信雄様が私に助けを求めて来られたという次第でございます。

先ほど申しあげましたように、私は尾張の信雄様をはさんで私と秀吉様が戦うことになることは想定しておりました。それで、準備ができておりましたのですぐに出陣しました。
1584年の3月のことでございました。
そして信雄様と清洲城で落ち合い作戦をたてたのでございます。
一方、秀吉様の軍は大所帯になっておりましたので、すぐには尾張に向かうことができませんでした。そんな中、先ほども申し上げました信長様の乳母兄弟の池田恒興様は当然織田家に組すると思われていたのですが秀吉様に加担され、一番に犬山城を攻撃し占拠されたのでございます。
池田様は時勢を見るに敏な人でございました。はい。
私はこの戦いの中心が小牧山になると考えておりましたのですぐに小牧山に本陣を置きました。
そのことが、遅れてやってこられた秀吉様を悔しがらせたと聞いております。
この時に信長様の築かれた小牧山城跡の土塁、空堀などに大規模な改修を行い、強固な陣地を急いで築いたのでございます。
それで、秀吉様も容易に手が出せず、にらみ合ったまま時間が過ぎていったのでございます。
そこで焦った先ほどの時世を見るに敏でありました池田様やその娘婿の森長可(1558年~1584年)が、私の地元の岡崎城への無謀にも長駆攻撃を行なおうとしたのでございます。
しかし、私どもの方が地の利がございました。先回りして池田様たち、その一行を壊滅することが出来たのでございます。池田様と森様はその時おなくなりになりました。
あまり時世に敏になりましてもよくないというたとえでございますね。
この勝利は小牧山城を本陣にし、機動的に動いた私たちの作戦勝ちでございました。
そして、その後の戦いも、私と信雄様の側に有利に進んでいきましたが、秀吉様の方が一枚上手でございました。別働隊に信雄様の領土であった伊賀・伊勢に侵攻させ、その殆どを占領し、さらに伊勢湾に水軍を展開させ、信雄様に精神的に圧力を加えたのでございます。
秀吉様は合戦から半年以上経った11月に、伊賀と伊勢半国を秀吉様に分け与えることを条件に信雄様に講和を申し入れ、信雄様は単独でこれを受諾してしまわれたのでございます。
信雄様が戦線を離脱してしまわれましたので、合戦の大義名分を失ってしまった私はついに兵を引き上げざるをえませんでした。以上が小牧山城を巡る私のお話でございます。

現在の小牧山城の模擬天守の二階で、この小牧長久手の戦いを詳細に説明しているジオラマを見ることもできますので、お城に行かれた時にはご覧いただければと存じます。

最後に、これまた余談ではございますが、信長様のご家来衆である丹羽長秀様、柴田勝家様、秀吉様、それに佐久間信盛様(1528年~1582年)の四名様が『木綿藤吉 米五郎左 かかれ柴田に のき佐久間』と、うたわれたことをご説明させていただきます。
これは次のような意味でございます。
木綿藤吉(秀吉様)は木綿のように丈夫で、非常によく働くたとえでございます。
米五郎左(長秀様)は地味だけど、信長様にとり無くてはならない存在なのでございます。
懸かれ柴田(勝家様)は合戦でも先鋒で活躍し「懸かれ~!柴田じゃ!」の人でございました。
そして、退き佐久間(信盛)様は退却戦が得意で、味方の損害を少なくして殿(しんがり)を務めたというわけでございます。
この佐久間様は信長様の父上の代から使えた重臣でございましたが、信長様からその消極性を指摘され信長様が亡くなられる年の始めに高野山に追放され、さらに熊野に追い出されて亡くなられた方でございます。信長様は佐久間様が石山寺攻略に4年もかかったこと、越前朝倉攻めで信長様の軍が敗退したときに信長様の部下への叱責に口答えしたことなど19か条の折檻状が渡された上での追放でございました。
その中には、1573年に私が武田勢と戦いました三方が原の戦いで、滝川一益(かずます)様(1525年~1586年)、平手汎(ひろ)秀(ひで)様(1553年から1573年)たちと共に3,000の兵を率いて、私の軍8,000の援軍に来て頂いたのですが、佐久間様は27,000の武田軍を目の当たりにされ、ほとんど戦わずして退却されてしまったことも含まれております。そして平手汎秀様は戦死されているのでございます。
汎秀様はあの平手政秀様(1492年~1553年)のお子様でございました。
えっ、平手政秀様をご存知ではありませんか・
信長様がお生まれになると守役となられ、織田家の次席家老を務めた方でございます。
信長様の後見役として信長様の初陣を滞りなく済ませたり、争い中であった美濃の斎藤道三様との和睦を成立させ、信長様と濃姫(帰蝶)との婚約を取りまとめた方でございます。
そして、うつけ者と言われた若き信長様の数々の奇行に手を焼きつつも、根気良く諭し、常々諌めておられましたが、信長様の父上の信秀様(1511年~1552年)が亡くなられて、織田家中が不穏となる中で、信長様の奇行をやめさせるに自刃された方でございます。
政秀様がお亡くなりになっても信長様の行状は改まらなかったようでございますが、信長様は政秀様のために政秀寺を建立され、菩提をともなっておられます。
えっ、お時間でございますか、誠に残念ではございますが、ここで小牧山城についての、私のつぶやきを締めさせていただきます。長い間お付き合いいただきありがとうございました。

丹羽慎吾

 

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