館長のつぶやき〜「佐藤春夫の少年時代」74

番外編・春夫の反骨精神の行方
2010年10月11日付の朝日新聞の投書『声』欄に次のような文章が載りました。「浅沼殺害 絶句した佐藤春夫」の見出しです。全文を引いてみます。

「1960年10月12日、私は東京の佐藤春夫邸にいた。勤務先の出版社で出した「西遊記」の翻訳をお願いし、打ち合わせをしていたのだ。/話し合っているところへ夫人が転がるようにやってきて「浅沼さんが殺されなさったんですって」と叫んだ。社会党の浅沼稲次郎委員長が立会演説会場で、17歳の右翼少年に刺殺された事件である。佐藤氏は絶句し「こういう国の文化勲章をもらうのは恥ずかしい」と、深刻な表情で言った。彼はこの年、文化勲章を授与されることが決まっていたのである。/これより半世紀前、満18歳の佐藤氏は、同じ和歌山県新宮出身であった大逆事件被告、大石誠之助の処刑を知って「大石誠之助は殺されたり/げに厳粛なる多数者の規約を裏切る者は殺さるべきかな」と悲憤の詩を書いた。浅沼暗殺への彼の反応は、国民的詩人と仰がれる身となってもなお、往年の感性と反骨精神を保ち続けていた。」

当時75歳であった翻訳家宮下嶺夫が見た、その日の春夫の狼狽(ろうばい)ぶり、持続されていた反骨精神は、強く印象に刻まれたものと見えます。春夫にとっての「大逆事件」は、さまざまな折に想起されるもの、意識下に絶えず伏流していて、何かの折に噴出してくるものという風にこれまで定義づけてきた私にとっては、なるほどと納得させられる、初めて耳にする興味深いエピソードです。同時に、同じころ、先輩として文学への道を歩み始めていた和貝夕潮(彦太郎)にも、次のような和歌があった符合を、不思議な思いで連想しました。教えてくれたのは、和貝の遺児藤木明です。

「夜も昼も刑事の立てる門前に水などまきて笑み居たる妻」
「沼さん亡く水長逝きてわが思う庶民政治はたそがれとなる(浅沼暗殺)」

未発表の、夕潮のメモ帖、書きつけに記されてあったものだということです。「沼さん」は言うまでもなく、「人間機関車」ともよばれた浅沼稲次郎、「水長」は水谷長三郎で、同じ年12月に亡くなっています。その政治生活は戦後の社会党を引っ張った点で共通しており、「大衆性、庶民性」でも高い人気を獲得した人たちだったのです。

河上肇門下として活躍した時「水長」こと、水谷長三郎は1921(大正10)年4月9日、第3高等学校弁論部員として新宮中学で講演をしたことがあります。題して「物と心」。同じとき、後に評論家として一家を成す大宅壮一も「理性避難所の旋風」と題して話し、後年新宮中学の自由な雰囲気を懐かしく回想しています。またこの時、郷里が近いと言うこともあってか、山本勝市も同行しています。山本は東牟婁郡四村(よむら・現田辺市本宮町)の出身、3高から京都帝大に進み、河上肇門下として活躍した時期もあり、和歌山高等商業の教授を務めました。文部省から在外派遣された折、ベルリンではマルクス主義研究会の社会科学研究会などにも参加しています。のちに、文部省国民精神研究所文化研究所員として、左翼思想の取締りにも当っています。戦後は、公職追放なども受けますが、日本自由党(現自民党)創立に係わり、衆議院議員も努めました。政治家としては、水谷とは全く異なった道を歩んだと言えます。山本は、成石勘三郎・平四郎兄弟の出身地の請川村とは、山一つ越えた四村で小学校教員をしていたとき「大逆事件」に遭遇し、兄弟とは顔見知りでもありました。山本は勘三郎の娘婿須川要助から、勘三郎の獄中手記を預かり、それが山本から沖野岩三郎に譲られ、沖野から神崎清に贈られたものが、成石勘三郎の「回顧所感」と題されたものです。

神崎清が「大逆事件」の犠牲者の『獄中手記』を出版したのは戦後間もなくの1950年ですが、14年後の1964年(昭和39)、『大逆事件記録第一巻 新編獄中手記』として再刊された時、新たに成石勘三郎の「回顧所感」とその解説を収録しました。「回顧所感」の表紙には「此の一冊は成石家より山本勝市博士に、博士より私に送られたものである。一篇中田辺分監での取調べは強く私の胸をいたませた。今これを神崎清君に贈る」と、沖野岩三郎の自筆の書入れがあります。
浅沼刺殺の衝撃から、話が随分拡がり過ぎました。

大石誠之助が逮捕拘禁された時、豊太郎はさっそく新宮警察署に駆けつけ、差し入れを切望するがかなえられず、余り係わらないほうが身のためだと署員に諭されてすごすごと引き返してくる、そんな体験を、晩年近所の者(下里の懸泉堂)に語ったということを、最近聞き知った。与謝野寛が佐藤豊太郎宛の書簡で(明治43年11月10日付)、春夫と堀口大学とが慶応大学に仲良く学び、過日同伴して塩原への歌会の旅行をしたことなどを伝えた後で、「本日の新聞にて発表致され候公判開始決定文によれば、御地の大石氏も意外の重罪に擬せられ候様子、まことに浩嘆に堪へず候。想ふに官憲の審理は公明なる如くにして公明ならず、この聖代に於て不祥も罪名を誣ひて大石君の如き新思想家をも重刑に処せんとするは、野蛮至極と存じ候。この上は至尊の宏徳に訴へて、特赦の一事を待つの外無之候。向寒の時節ますます御自愛のほど奉祈上候」と述べているのも、豊太郎には十分に共感、理解できるものではなかったろうか。

辻本雄一

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