館長のつぶやき〜「佐藤春夫の少年時代」56

春夫、生田長江に同行(二)
講師一行は8月26日新宮町を出発しますが、長江日記によれば、「朝の七時半に新宮を立つ。佐藤春夫君十八歳京都まで同行せんとす。那智まで四里。第一の滝は濫りに入るを禁じられたるところへ佐藤君と共にもぐり込む。濛々たるシブキの中に立ちたりし快味は忘れがたし。」とあって、その後「与謝野君等勝浦の船宿にて待受たりき。

佐藤君の令弟(十五才)夏樹君も待ちありき。港外の景賞するに足る。皆はじめて犬の鼻引をかけさせたりき、犬の可憐なる形容するに辞もなし。」と続きます。那智の滝へは、春夫が長江だけを案内した模様で、犬の先挽きの姿には、動物虐待に通ずる憐憫の情を表しています。

27日午後2時船は和歌浦港へ入りました。「高等女学校教頭石井弘君出迎へてくれ、米栄にて御馳走になる。」とあります。「石井弘」は「石川弘」が正しい。石川はフランス文学への造詣も深く、「戯庵」と号して雑誌「スバル」などに翻訳を載せています。佐藤春夫や和貝夕潮と同じ号に顔を並べていたりします。ルソーの自伝的著作「懺悔録」を大正元年9月に、菊判大冊2巻で刊行していますが、上田敏、森鷗外が序文を飾り、島崎藤村が跋文を書いています。これまで「懺悔録」は森鷗外らによって独訳などから抄訳は成されていましたが、フランス語からのそれは初めてで、しかも完訳本でした。以後、広大な読者を持つに至り、島崎藤村の作品をはじめ、さまざまな作家に影響を与えたと言われています。上田敏はその序文で「明治文壇の一大事業」と讃えています。昭和5年12月岩波文庫全3巻にも収められ、さらに人口に膾炙(かいしゃ)しました。

その石川は、後述する「サンセット」5号(明治43年6月)に「人が行く」という詩を発表しています。「あのみんなの目を見ないか、/  どんよりと炭色にうるんだの、/ うつとりと伏目に / 媒色の節穴みたいな=然うだ!」とあって、「明るい目」が一つも通らないと嘆く。さらに「「狐疑」が脱け出してきたやうな / 意味あるやうな、ないやうな、 / いろんなものが、おづおづと、/ おづおづと爪先立てヽ行く、行く!」と続き、そこには、虚無的な視線が注がれています。

その後、石川弘は大正6年7月から大正13年6月まで、新宮高等女学校校長として赴任、「県立」になった高女校の発展や地域の文化面での向上に貢献しているのです。

講師陣一行は、和歌山で玉津島、和歌浦権現、紀三井寺、和歌山城などを見学、住吉に出て、石井柏亭、与謝野寛と別れています。天王寺の停車場で1時間以上も待ち、奈良に向かい、夜の10時前に奈良に到着、猿沢の池畔の印判やに投宿、夏季休暇中の春夫と夏樹も同行していました。

28日には、大和新聞記者の村田泥庵(俳人で、既に述べた様に「熊野実業新聞」の記者を務めていた。近親者の回想集「忍び草」がある。)が案内で、午前中は法隆寺、午後は興福寺、博物館、東大寺、春日神社などを回り、京都に入ったのは、11時前であったと言います。ここで春夫らとは別れたのでしょうか。与謝野晶子ゆかりの「しがらき旅館」で、宿には既に与謝野寛と石井柏亭とが来て待っていました。「西の京三本木のお愛さん」が経営するこの宿は、賀茂川上流の糺の森近くにあって、堺時代からの晶子の常宿で、晶子は第5歌集の「舞姫」に「お愛さん」への献辞を記しています。長江は日記に「三本木のお愛さんも衰へたるかな。」と記しています。

3人は、翌29日の午前9時25分の汽車に乗って帰途に就き、その日のうちに東京に帰り着いています。出発間際に薄田泣菫(すすきだきゅうきん)が訪ねて来て「語を交ること僅かに半刻。」とあります。

今度は、春夫の日録から辿ってみると、28日「生田先生と京に入る」とあります(春夫「洛陽日記」・「熊野実業新聞」明治42年9月)。20日には疎水を上って大津に入り、琵琶湖を眺めています。三井寺にも参拝しています。夜は丸山公園を散策したようです。

春夫らは京都で第1中学傍に宿を取りました。この頃、京都一中は、左京区吉田近衛町にあったらしい(現在の近衛中学校)。その後下鴨に移転し、現在の府立洛北高校になります。洛北高校史の明治42年8月29日の項に「寄宿舎原因不明の出火」とあるように、春夫らが琵琶湖見学中に第1中学で火災があったらしい。弟夏樹は、30日に「簡単な手術」を受けました。春夫は、31日、父の友人で俳人でもあった山路二郎の下で歯の治療を受けています。明治37年5月新宮から出て来て京都富小路御池南で開業しており、毎年新宮にもやってきて出張診療もしたと言います。俳号を「二楼」と称し、徳美夜月や村田泥庵らと俳句会の金曜会を作りました。二楼の句「病室のガラス戸震ふ野分かな」の「病室」は、熊野病院のことで、入院している俳友を思い遣ったものと言います(森長英三郎著「禄亭大石誠之助」)。

京都では義兄西浦綱一と夕食を共にしていますが、「『俺なんざあ、もう何も愉快な事がない。人間を辞職したくなつた』と何かしら兄貴は怖ろしくニヒリスト化したことを云ふ」とあります(春夫「洛陽日記」より)。

義兄の口吻にニヒル化した態度を見ていますが、義兄は女児を授かったばかりでした。春夫は「姪生る」の文を7月に草しているように(「熊野実業新聞」明治42年7月)、西浦と姉保子との間に娘智恵子が新宮の地で生まれています。春夫はその後も殊の外姪智恵子を可愛がり、後年、智恵子の学識を信じて雑誌の編集に関与させたり(最近、女性誌「あけぼの」が発見された。昭和5年5月の刊。春夫の肝いりであることは、編集部が春夫の自邸で、編集人が佐藤智恵子になっている。何号まで出たかは、不明)、中国旅行に同伴させたりしています(昭和2年7月、来日した作家田漢に誘われての、上海、南京などへの旅。この時上海の宿で芥川龍之介の自殺を知る)。

春夫が感じ取った夫の側のニヒルさにも要因があったのでしょうか、やがて明治45年5月、姉保子が2人の幼児を連れて協議離婚しています。「姪生る」は、姉を見舞った様子を描写して、「姉さんを見る、姉さんは仰臥しながら天井板ばかり眺めて居る、僕が接近すると瞳をぐると一週りさせたが再瞳が元の位置に帰つた、一昨年の秋初めて子が生れた時の如くうれしいと云ふ表情に少量の驚きを帯びた若い表情は見られなかつた、たヾ心配だつたと云ふさびしい表情が其殆んどすべてである、姉さんも大分老婆化した、戯談じやない、こヽにも人生のさびしさがある。」とあるのは、先行きの不安を姉の表情に深読みしているのかも知れません。

春夫も9月1日の210日の雨の京都の佇まいに「寂寞」の思いを深くしています。30日、僕ら兄弟の下宿として春夫が記しているのは、「京都、岡崎、神蔵坂一、武友方」です(「洛陽日記」より)。この年新宮中学では、生徒の間に蔓延していた脚気病のために、夏季休暇は9月に入っても長めに取られていました。しかし「寂寞」の思いに浸っていられない現実が、たちまちに春夫の身に襲い掛かってくるのです。もっと長期に滞在する予定の「下宿」であったのでしょうが、急遽帰宅を促されるのです。「洛陽日記」の連載も(二)までで打ち切らざるを得ない状況が生まれて来るのです。

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