房総半島と紀州との関係?
小さい頃、地図を見て千葉県の房総半島にも「勝浦」や「白浜」があると不思議に思ったことがあった。白い浜はどこにでもあるだろうから同じ地名が全国にいくつあってもおかしくはないと思っていた。では勝浦は?その後、「昔、紀州の人が房総半島に渡り漁業を教えた。そして故郷を懐かしがって勝浦や白浜という名を付けた」と聞いた。この事実は実際はどのようなことだったのだろうか。
紀州は、長い海岸線と天然の良港に恵まれ、早くから沿岸漁業が行われていたが、元和年間(1615-24)には加太浦(和歌山市)の漁民が房総半島南部沿岸に出漁している。漁の中心はイワシ網漁で、春に房総半島に出稼ぎに行き、秋に帰郷するのが一般的であったが、それらの中には帰らずに永住する者もあった。
紀州の漁民は房総沿岸の各漁村に入港し、中高網や八手網などの方法でイワシ網漁を行い、現地に紀州の進んだ漁法を伝えた。彼らは漁港の整備費や漁獲物の干場の使用料などを支払うことによって漁の許可を得ていた。
関東に出漁した漁民の状況を享保年間を例に見ると、享保11年(1726)に日高郡津久野浦(日高町)の漁民75人が常陸国(茨城県)常陸原へ、同18年に加太浦の漁民28人が安房の各村へ出漁し、同19年には塩津・栖原・湯浅の三浦の漁民384人が安房国天津小湊(千葉県鴨川市)に出稼ぎに行っている。
紀州の漁民は、すぐれた技術によって大量のイワシを収穫し、肥料となる干鰯(ほしか)の増産に貢献した。この収益に目を付けた紀州藩は、享保18年に関東出漁の漁民に対して5000両の御用金を課している。
なお、紀州の出漁民である有田郡出身の栖原屋角兵衛は、江戸に進出して干鰯などの漁獲物だけでなく、熊野材などの紀州産の木材、薪炭を扱って成功し、幕府との関係を深めて蝦夷(北海道)のニシン漁場をも開拓している。このように、房総半島に出漁した紀州の漁民の中には100万都市江戸が近いことから、漁業以外の分野でも活躍した人々もいた。
因みに、銚子は、有田郡広村(現広川町)の崎山次郎右衛門が、明暦2年(1656)に外川に港と町を建設し、多くの紀州人が住みついたため、紀州人がつくった町といわれている。