ダンスは世界の共通語~玉置眞吉①

1910年代から20年代にかけての日本は、「大正デモクラシー」の言葉に代表されるように、人々の自由と民主主義を求める運動が各地に広がった時期でした。そしてこの時代の雰囲気は「文化学院」という自由な学校を生み出し、そこには新宮地方出身の人々もよく集うようになりました。

また、この学校の活動に関わった人々やその教育を受けた人々は、絵画、文学、演劇など芸術を中心としたさまざまな分野で、先進的でユニークな活動を展開してきました。日本のダンス教師の草分けとなった玉置眞吉もその一人です。

その前半生ーー「大逆事件」の重い体験

玉置眞吉は、1885年(明治18年)、今は新宮市と合併した熊野川町の九重地区と川をはさんだ向かい側(三重県)にある花井(けい)に生まれました。小学校の教師への道を目指した眞吉は、和歌山の師範学校を卒業し、県内のいくつかの小学校で、音楽を中心に教壇に立ちました。またこのころ、キリスト教の洗礼を受けています。

ちょうどこの時代は、新宮地方にも新しい文化の波が押し寄せ、大石誠之助やその甥の西村伊作などが西洋の生活様式や進んだ考えを広めようとしていたころです。紀南の中心で小さくとも活気のある新宮には、社会主義や仏教、キリスト教の教えを広めることによって世の中をよくしていこうとする人々が集まり、たびたび講演会や読書会が開かれています。

眞吉もこのような動きに関心をもち、若いながらも雑誌に自分の考えを投稿したり、新宮教会の牧師であった沖野岩三郎の紹介で、誠之助の家に出入りしていました。しかしこのことで、眞吉は人生を大きく変える出来事に巻き込まれる結果となるのです。

1910年(明治43年)の「大逆事件」において、誠之助たちとつきあいのあった眞吉は、そのグループの一人として取り調べを受けます。このとき、裁判所に勤めていた父や岩三郎、誠之助らの機転で危うく罪を免れますが、当時勤めていた九重小学校の教師を辞めざるを得なくなり、その後何年もの間警察に監視される身になってしまうのです。

眞吉は生活のために、神戸でキリスト教を伝道している香川豊彦のもとに行き、貧しい子どもたちへの讃美歌の指導や食の提供を手伝います。事件から半年後、誠之助らは死刑判決を受け、わずか一週間で処刑されてしまいますが、誠之助を尊敬していた眞吉にとって、このことは人生最大の驚きだったでしょう。

そんな眞吉は賀川からもう一度勉強することを勧められ、1912年(大正元年)、東京の明治学院大学神学部に入学します。学校への行き帰りはまだ刑事の尾行つきのなか、キリスト教を学びながら讃美歌の指導やオルガン伴奏を行う日々となりました。

オペラとの出会いと文化学院での活動

当時、完成して間もない帝国劇場では、歌舞伎などの日本の演劇に代わって、まだ珍しいオペラなどが上演されるようになっていました。眞吉はその西洋式の音楽と舞台での動きに引き込まれます。そして、学院の卒業後も牧師にならず、メッキ工場で働きながら劇場に通いつめ、自由に楽屋に出入りできるようになります。

また、オペラの楽譜付きの絵葉書を売り出すと評判がよく、工場をやめてそれに専念するようになりました。さらに30代になったころには、オペラの一座とともに各地を巡業して回りますが、同じ時期に社交ダンスにも関心をもつことになったようです。

1921年(大正10年)、西村伊作が東京の神田駿河台に文化学院を創立します。そのとき、眞吉は与謝野寬・晶子夫妻らを通じて協力を求められます。それから伊作が設計した校舎の建築や授業の計画づくり、役所に認可してもらうための書類づくりに忙しい日々となりました。

いよいよ開校してからもその運営の仕事をこなしながら、かつての経験を生かして、音楽や英語など、教師の役割も務めました。このとき、「赤とんぼ」の作曲で有名な山田耕作などの、文化学院に出入りする数々の文化人と、かつてオペラに通っていたころの友人たちから、音楽の知識や欧米のダンス界の新しい情報を受けています。

1925年(大正14年)、日本の交響楽の歴史に残る大きな出来事がありました。ロシアから交響楽団が招かれ、日本の演奏家と合同で各地を講演したのです。これにも眞吉は協力を頼まれて、国内の演奏家を集めたり、練習場の確保に奔走します。

~つづく~

 

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