ダンスは世界の共通語~玉置眞吉②

bunka-rekishi-120x90ダンスを通して世界を見つづけた後半生

こ の大仕事を終えて2年後、眞吉は「玉置舞踏学院」を解説しました。まだテレビもない時代、洋書店で手に入れたイギリスのダンスの教則本を研究しながら、東 京で社交ダンス教師の地位を固めていきます。そして、45歳のとき、日本初のダンス教師の組織「日本舞踏教師協会」が設立されると、その熱心さが認められ 初代の会長に推挙されました。

当時はまだ西洋式ダンスはごく一部の上流階級のものであると思う人が多く、男女が組み合って踊るなどは不道徳 であるという偏見が強かったのです。警察からもダンスホールなどは風紀上よくないと監視された時代です。またダンスの教師たちも、それぞれが学んできたア メリカやフランス流などの正当性を主張して対立していました。しかし、眞吉は、イギリス流を主体としながらも、まずダンスがコミュニケーションの手段とし て、誰もが楽しめるものであることを人々に理解してもらうことに力を入れます。

当時ようやく出版されだしたダンス専門の雑誌や入門書には、 眞吉がヨーロッパで流行している新しいスタイルのダンスだけでなく、初心者に向けてのわかりやすい踊り方も次々と紹介しています。それから数年後、関西に もすでに大型のダンス場がいくつかできていましたが、眞吉は東京と大阪、神戸の間を忙しく行き来しながら「正確に踊る」ダンスと、「楽しく踊る」ダンスと を両立させることに苦心しています。またワルツ、タンゴ、ブルースなど、あらゆる種類のリズムによる社交ダンスの教則本や全集の出版を続けます。

厳しい冬の時代から、戦後の新たな活躍へ

1937年(昭和12年)、日中戦争が始まりました。このころから太平洋戦争にかけて、あらゆる西洋風の芸術活動に対して風当たりが強くなります。とくに社交ダンスなどは堕落した敵国の危険な娯楽であるとして、国から一層厳しい目が向けられるようになりました。

そ んな中でも眞吉は、「ダンスは音感を養い、姿勢を良くし、国民の健康を保つのに適している」と雑誌に書いていますが、それも空しく、1940年(昭和15 年)には、ついに国内のダンスホールはすべて閉鎖されてしまいます。やむなく眞吉はある工場の事務に就き、メッキ工場で勤めたころのように働きます。

そ して5年後、ようやく戦争は終わりました。貧しいけれども平和な新しい社会の訪れです。アメリカからは農民たちの間で発達した簡単なスクエアダンスが紹介 され、国民に広まります。眞吉が久しぶりに出版した社交ダンスの本も飛ぶように売れ、日本には空前のダンスブームが起こりました。ただし、同時にダンス教 師の主流争いも再び起こってきます。

それに対して眞吉は、競技のためでも営利のためでもない、多くの人々が楽しめるダンスへの道を求めてい きます。眞吉は60歳を超えていましたが、北海道から九州あmで飛び回り、そして郷里の九重にも立ち寄り、炭鉱労働者や一般の市民たちに社交ダンスとスク エアダンスを教えて回りました。

1954年(昭和29年)、眞吉は69歳にして、東京の国立音楽大学の付属小学校にフォークダンスの教師と して迎えられます。若き日に「大逆事件」のために故郷を追われて以来の学校です。ここでの5年あまり、眞吉は6歳の子どもから先生たちにも、楽しいフォー クダンスを教えました。ダンスの授業のある日は、子どもたちは大喜びだったそうです。

ダンスは世界の共通語

tamakishinkichi1眞吉はその本の中で、「言葉が通じなくても、音楽とダンスによって世界の人々と親しむことができ、平和国家を作るもとになる」という意味のことを書いています。そして全国どこへでも、ダンスの教授に出かけていき、1970年(昭和45年)に亡くなるまでダンスへの情熱を失いませんでした。自伝「猪突人生」の中では、自分の一生を振り返ってこう述べています。

「私は明治43年のあの時、首を絞められていたら、楽しみも、苦しみもあり得ないでは無いかと思うと、貧乏だの、悪口だの、奸計による私への圧迫などは、まあ蛙の面に水ぶっかけたくらいにしかこたえません。私はあの事件に連座したことを少しも悔いていないばかりか、生き延びて最悪の場合に出遭ったときもビクともしない胆力を養ってくれたあの事件に対しては、此方からお礼を申し上げねばならぬと、今日になっては考えています。……」

眞吉は25歳のあのとき、天下を揺るがすような大事件に巻き込まれなければ、紀南地方の一教師として生涯を終えていたかもしれません。そんな厳しい世の中にあっても、前向きで楽天的に、ダンスを通じて少しでも世の中をよくしてゆく道をたどりました。その男女平等や国際交流の思想など、時代の先を見る目は、建築を通して生活を改善しようとした西村伊作と通じるものがあります。

常に新しいものを求め、ささやかであってもそれぞれの方法で文化を高めていく伊作や眞吉の生き方は、私たちの人生のヒントになるかもしれません。

(出典:熊野新宮発「ふるさとの文化を彩った人たち」)

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