館長のつぶやき~「佐藤春夫の少年時代」(33)

初恋の人、大前俊子との出会い(二)

佐藤春夫と小学校以来の同級生で新宮中学へも一緒に通い、春夫の新たに発見された日記にもしばしば登場する玉置徐歩(じょぶ・大石誠之助の兄玉置酉久の3男)は、「佐藤との昔話し」(「熊野誌」12号・昭和40年11月)で、「今地方事務所になっている所にあった新宮女子高等小学校の前を通り、運動場に沿うて歩き、登校前の新鮮な気持で白線の二本入の袴をはいた水野のおときさん、尾崎のやっさん、和田しず子さんなどの後ろ姿や横顔を見るのが狙(ねらい)であった」と、告白しています。「尾山瑞枝」のモデルは、先に新宮高等女学校設立に際し寄付を申し出た尾崎作次郎の娘尾崎やすゑです。やすゑはその後、初代の新宮病院長として赴任してきた西川義方(にしかわよしかた)と結婚することは、新宮病院の開院について記述した所ですでに述べました。

その3番目の少女、本命の少女こそ、高等女学校生ではなかったものの、「わたくしの意中にはその特別にひとりの少女」(「追憶」の「三人少女」)が居り、4、5年前から知り合っていて、通学路から「大きな角店(かどみせ)の」2階のカーテン越しの彼女の振る舞いなどが仄見えるのが楽しみになったと言います。

春夫が「黒瞳の少女」とか「お伽話(とぎばなし)の王女」(大正10年10月「婦人公論」・「私は恋愛とともに生育する」)とか呼んだ「初恋の人」大前俊子(戸籍面では「とし」)との交流は、次のような事情で始まりました。
後年の「詩文半世紀」は、「序章 恋と文学」から書き始められ、小見出し「忘れられぬ童女」をその劈頭(へきとう)に据えています。

「父の病院の上等室三号と呼ばれた最もよい室に入院中の少年患者」に絶えず本を届ける妹がいて、「わたくしより一つ年上の童女であった」。「後に明眸皓歯とか王女とかいう美人の形容詞を知るようになってから必ずあれがそれだなと思い出すのが、その童女のその後四五年を経て少女(おとめ)さびたころの姿であった。うすいそばかすがあったが色は抜けるように白く、ややうすく大きめな朱唇(しゅしん)の形よく、黒瞳はつぶらに大きく、大柄で姿がよい。そのころ一代にもてはやされた竹久夢二描くところの少女そっくりであった。その麗質は早く童女のころから現われていた」と言います。

春夫と知り合った頃の大前俊子。

俊子の家の近所に住んでいて幼い頃よく遊んだと言う多田(旧姓草加)たみのは、2歳下で琴を一緒に演奏したこともあり、丸形の色の白い眼のぱっちりとした優しい方であったと言い、他人と喧嘩することなどもなく、どちらかと言うと母親に似て大柄でよく目立ったが、割と謙虚であまり外に出たがらないタイプであったと言います。

春夫の俊子へのイメージは、色白でつぶらで大きな黒瞳に象徴されています。時の女性像の象徴、竹久夢二(たけひさゆめじ)描くところの「宵待草(よいまちぐさ)」のモデル長谷川カタも、新宮出身の須川政太郎(すがわまさたろう・音楽家・第7高等学校(現鹿児島大学の「北辰斜(ほくしんなな)めに」の作曲者・第1高等学校の「ああ玉杯(ぎょくはい)に花受けて」、第3高等学校の「紅(くれない)燃ゆる」に次ぐ寮歌などの名歌として歌い継がれる)と結婚し、昭和42年に亡くなって、いま南谷(みなみだに)の須川家の墓地に眠っていますが、その下の方、入口近くには夭折(ようせつ)した俊子も眠っているのも何か奇縁を感じます。

春夫が上京後、本郷の下宿屋で、管理人との手違いで古鞄を紛失してしまったことがあったのですが、そこには習作原稿の反故類とともに俊子から送られた大切な写真も収めてあったと言います。「例の夢二式美少女がわが出郷に当たつてわたくしに与へた写真がそのなかに雑つてゐたのだけが心残りであつたが、わたくしは物ぐさで失つたものを捜し出さうともしなかつた。過去を過去として葬り去るつもりであつた。」と述べています。(「詩文半世紀」)

熊野病院2階の陽当たりも見晴らしも良い「病院の上等室三号と呼ばれた最もよい室」は、大正期に入って春夫が新進作家として認知される以前、帰省の折の執筆などに使用して、「ガールフレンドの面影が去来して、わたくしを鼓舞する部屋であつた。」とも言っています。

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