館長のつぶやき〜「佐藤春夫の少年時代」77

おわりに(3)

春夫の「反骨」を培った土壌と共に、父と母とによって育まれた「人格」も無視できません。生田長江の回想と共に、与謝野晶子も家庭教育の影響に触れています。
春夫自身の父や母に対する恩恵は、以下の言葉に尽きていましょうか。
「わが父わが母及びその子われ」の一節(大正13年8月「新潮」)です。

「私は父に鞭や杖で乱打されたことが幾度あるかわからない。父は激情的な、それに理想家はだの人であった。(略)全く私は自分のなかに父の血を沢山に持つてゐることに、今気がつく。風貌から言つても私は、私の年ごろの父にそつくりだし、―人々がさういふし、また写真などを見てもわかるし、いや、ごく近年私は父その人と間違はれたことさへある。音声ならば、二階で口を利いてゐると私の声と父のものとを母でさへも区別することが出来ない。外貌ばかりではない。物好きで、さまざまな無用(注:引用元は傍点)な事物に趣味を持つことも私は父に似てゐる。書画や古器物、さまざまな動植物。父は鶴を飼つてゐたこともある。父のいふところによると、音曲を学ばなかつただけでその外のことは何でもやつてみたらしい。猟銃を持つたことがあるし、馬に乗つたことがあるし、写真術にも凝つていたし、舶来のごく当初に自転車をも愛好した。父は二十歳になる前に医者の免状を得たので早く自立して、その為めに年少の好奇心が動くままに、それを満足させたものらしい。

(略)父は「俗な」といふことをすべての非難の標準にしてゐる人である。さうして潔白が彼の道徳的理想であるかと思ふ。(略)詩魂は、前にも述べたとほり私は父から得た。しかし父は私を詩人にするつもりはずつと後までなかつたのである。父ほど子供の教育に熱心な人は尠いだらう。私が科学的な素質や、また沈着の美徳や、物を整理することや、また理財の才能がないであらうことをとつくに見抜いて、父は私に動植物の採集蒐集やら、毎朝百字づヽの習字やら、また養鶏によつてその産卵を材料にした実際的の算術やら、さうして毎夕、日記を記入することやら、そんなことを勉めさせたのに、私は全く一つとして成し遂げたものはなかつた。(略)父は又、私の情操の教育も決して忘れなかつた。(略)夏の朝早く起こして私を神社の森に誘ふたり、僧院の池へ蓮の花の開くところを見せに行つたりもしてくれた。」

「私は母に就いてはあまり言はなかつたが、私は母をどんな人と述べることが出来ないほど愛してゐる。さうしてただわが母といふ言葉より外には言へない。私にはわからないが母はひよつとして私を、父の言ふとほり甘やかしすぎたかも知れないのだ。私は彼女の最初の男の子だ。しかし私は考へるのだが甘やかされた子供といふものはいつも詩人である。つまり詩人をつくる為めには甘い母が必要なのだ。/ 私は母に抱かれて聞いたいくつかの伝説的な怪異な話を覚えてゐる。母は説話の上手な人である。また父が音読するさまざまの書物に耳を傾けて、その年輩の女性としては文学に興味を持つてゐる人である。(略)私の父はその妻、―即ち私の母の世才と忍従の美徳にはひそかに畏服し感謝してゐるだらうといふやうな気がする。それにしても私は母から与へられた血はどうもあまりたくさんにないやうな気もする。ただ私の見かけによらない、へんに堪へ性のある頑強な体質は父と、さうしてより以上に私の母の賜ものである。」

しかしながら、大正9年2月には、自筆年譜には「極度の神経衰弱のため郷土に帰る」とあり、「この年、作品殆ど無し」となります。春夫自身の再婚、さらには家庭崩壊などの試練の中、谷崎潤一郎夫人千代への慕情など、たちまち作家生活の危機に陥り、あきらかにスランプに見舞われていきます。助け舟を出してくれたのは、新宮中学以来の友人東煕市の台湾への誘いでした。東は高雄で歯科医をしていました。台湾の原住民研究をしていた森丙牛、当時の台湾府高官の下村海南の支援もあって、春夫は原住民の地の霧社や対岸の杭州なども訪れ、植民地台湾の現実を目の当りにします。それらは、幾多の年月をかけて種々の作品となって結実するのです。春夫文学再生の一つの契機になったことは間違いがありません。

佐藤春夫は一言で言えば、詩人と評する人が多いのですが、春夫文学は詩人と言う枠では律しきれない、多様で多彩な様相を内在しています。
現在残されている全36巻、別巻2巻の全集(臨川書店版)でも、詩と言われるものはわずか2巻、分量からみても、散文が圧倒的な量になります。さらに現在、佐藤春夫記念館が把握している新発見の作品は、「初恋びと」という小説をはじめ、優にその1巻分を軽く超えています。
本人も「昨日の思ひ出に僕は詩人であり、今日の生活によつて僕は散文を書く。詩人は僕の一部分である。散文家は僕の全部である。」(「僕の詩に就て 萩原朔太郎君に呈す」)と言うように、散文への執着を見せている発言もあります。

春夫文学の意義とともに、春夫をめぐるさまざまな人脈も、多様を極めたはずですが、その幾筋かは忘れられつつあります。中国を代表する、あるいは世界の作家と言ってもいい、魯迅の作品に注目し、わが国に紹介した春夫の功績なども、今では多く忘却の彼方に追いやられているとも言えます。

春夫文学から拾い上げるべき珠玉は、まだまだ多く存在するのではなかろうか、と強く思われるのです。

*長い間、お読みいただきありがとうございます。この「ブログ」を中心に、今秋、大阪の和泉書院から、「能火野人、佐藤春夫―「のうかやじん」は「くまのびと」の謂いなり―」を刊行予定です。

辻本雄一

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