トルコのエルトゥールル号は何故日本に来たのか?
以前、125年前に串本沖で起きたトルコ船エルトゥールル号の海難事故がきっかけで誕生した串本町トルコ文化協会のことを紹介しました。トルコといえば、アジアの西の端の国でヨーロッパとアジアを繋ぐ位置にあります。そのトルコが、何故、アジアの東の国、日本に軍艦を派遣したのでしょうか。その理由は、当時の国際情勢が背景にありました。
幕末から明治にかけての日本は、北の大国ロシアの南下に脅威を感じていました。同時に、当時、オスマン帝国と呼ばれていたトルコもロシアの南下政策に苦しんでいました。同じような境遇にある両国の関係強化を目指したトルコ政府は、明治22年(1889年)、オスマン・パシャを特使として日本に派遣したのです。
オスマン・パシャ一行を乗せたエルトゥールル号は同年7月、当時、トルコの首都であったイスタンブールを出航しました。トルコ海軍は、それまで遠洋航海など実施したことがなく、また、エルトゥールル号も老朽化した木造船だったため航海にてこずり、日本に到着したのは1年近く経った明治23年6月のことでした。
明治23年9月14日、日本での使命を終えたエルトゥールル号は横浜を出港、トルコへの帰途についたとき運悪く台風に遭遇し、海は大シケとなり、9月28日午後9時ごろ、大島樫野埼(串本町)沖の岩礁船甲羅で難破したのです。乗組員から難破の知らせを受けた樫野埼灯台の職員は、樫野の集落に急報し、村を挙げての救援活動が行われた結果、69名の乗組員を救助したものの、オスマン・パシャをはじめ500名を超える乗組員が命を落としました。
エルトゥールル号の遭難から100年を経た平成2年(1990年)6月、日本とトルコの修好100周年を記念してトルコ海軍のフリゲート艦トゥルグットレイスが来日し、6月3日には串本でエルトゥールル号の追悼式典が行われています。エルトゥールル号は多くの犠牲者を出し、本国へ帰ることはできなかったものの、この事件が日本とトルコの友好の始まりとなったのですからその使命は立派に果たしたといえるでしょう。