新加坡回忆录(24)クチン~シブ~ムカ
今回は、駐在前に出張で何度も訪れた東マレーシアの町を少し紹介しましょう。今は事情が大きく変わっているようですが、当時は、仕事の関係でしかまず日本人が行くことのないようなところでした。
マレーシアは、地理的には南シナ海を隔てて、首都クアラルンプールのある西マレーシア(半島マレーシア)と東マレーシアに分かれています。東マレーシアは、ボルネオ島としても知られており、南東部はインドネシア、西北部に東マレーシアのサバ州とサラワク州そしてブルネイ王国があります。
経済的には西マレーシアの方がはるかに発展しており、当時の東マレーシアに行く日本人はおそらく石油・ガス関係か木材関係のビジネスマンが多かったと思われます。南洋材貿易が盛んであった頃は、日本人がジャングルの中に分け入って随分活躍したという話も聞きました。一方で、無計画に木を伐り過ぎてその後の森林破壊の原因となりましたが、今は伐採を制限し、切ったら植えるという20年後、50年後を見据えた方法に変わっているようです。
さて、当時の私の仕事は、ここサラワク州で製造される(サゴ椰子の幹から取れる)サゴ澱粉を買い付けて日本に輸入することでした。用途は、賦形剤、嚥下食用、打ち粉用など。日本からクアラルンプールまたはシンガポール経由でサラワク州の州都クチン(Kuchin)へ入り、そこで国内線に乗り換えてシブ(Sibu)にある会社を訪問するのです。シブには、福建省出身の中国系マレーシア人が多く、私の取引先の会社も福建系でした。(最初の写真左が社長の Mr.Chua 蔡)
クチンは州都だけあってそれなりに発展しておりきれいな印象がありましたが、実際には乗り変え時間が短くゆっくりする時間がなかったので詳しくは知りません。社長のMr.Chuaが経営する会社は、クチンから飛行機で40分ほど東北にあるシブにありました。シブは、ラジャン川とイガン川の合流点に位置しており、海までの距離はおよそ60km。福建省の福州市出身の華僑が多く暮らしており、Mr.Chua 一族もまさにその福建系でした。
同社は多数の小規模経営の工場から未精製の澱粉を原料として集め、シブにある工場で精製し真っ白なきれいな澱粉に仕上げて輸出していました。この未精製の澱粉工場は、シブからさらに離れたムカ(Mukah)、ダラト(Dalat)にありました。道路は西マレーシアのように整備されておらず、ボルネオ島の農村部に行くには飛行機か川を舟で行くしかありませんでした。(今は高速道路もあるようです。)
社長と二人でボートに乗りマングローブが生い茂るその茶色の川をダラトまで何時間もかけて行きます。お腹がすくとひと房持ち込んだバナナを食べます。ふと、ボートの後部に付いているモーターを見ると「kawasaki」と書いてありました。ここにも”日本”があると感心。未精製澱粉の小規模工場を一軒一軒廻って、社長は次の船積みに間に合うロットを確認していきます。勿論値決めもしているようですが福建語なのでいくらなのかわかりません。(このことが後に中国語を習うことになったきっかけとなりました)
360度周りを見渡すと茶色い川とジャングル、空を見上げれば真っ青な空、きれいな川や海のそばで育った自分からすると、あ~、世界の果てまで来たんだ(実際は世界の果てはもっとたくさんありますが)という感じがしました。川の水が茶色いのは、泥炭や落ち葉がどんどん分解して水に溶けてくるためだろうと思います。しかし、手ですくってみるとそれほど茶色くはありません。
さて、シブからムカまでボートでも行けますが、時には飛行機で行きます。15、6人乗りの小型のプロペラ機でしたが、驚いたことに、搭乗前に一人ずつ体重を測りました。プロレスラーか相撲取りの団体ならわかりますが、普通の旅客なら人数だけ確認すれば大体ことは済みそうに思いましたが面白さの方が勝ってむしろ微笑ましく思いました。
この飛行機への搭乗は、機の真後ろから乗るタイプのもので初めての経験でした。操縦室と客室の間に仕切りが無く、一番前に座ると機器に自分の手が届きそうな感じで操縦士の作業が手に取るようにわかります。もちろん、スチュワーデス(当時の呼び名で今では ”C.A.”)は乗っていないので機内サービスもありません。30分も経ったかなと思う頃にもう着陸態勢に入りムカ空港に到着です。見ると滑走路は芝生でした。
そして、ムカで泊まったホテルには、「豪華冷機大旅社」という看板がかかっていました。英訳すると「Gorgeous Air-conditioned Grand Hotel」」と言ったところですが、実際はボロボロの木造でした。でもこれが当時のベストホテルだったのです。
日本~シンガポール間は(シンガポール航空)のジャンボジェットで、シンガポール~クチン、クチン~シブ間は200人乗りくらいのマレーシア航空機で、そして最後、シブ~ムカ間は上記の15、6人乗りのプロペラ機(写真左)でと、当たり前ですが、だんだんと小さくなっていくのが何だか面白く印象深かったのを思い出します。全て40年前の話なので、各地の町もホテルも飛行場もすべて近代化により、今は様変わりのようです。
初めて行ったときに、社長がお土産にと言ってくれたのが、有名な首狩り族(イバン族)が作った木彫りの人形でした。1体30㎝以上はある結構大きなもので、槍を持ったり装飾品をつけていたりいろいろな格好していてとても興味深いものでした。仕事で行ったはずなのに、初めて乗った小さな飛行機は何だか遊園地の乗り物に乗っているような気がしたし、お土産までいただいて観光旅行のように楽しい出張でした。。勿論、しっかり値決めもして随分儲けさせてもらったのは言うまでもありません。
当時の飛行機 | 当時のムカ空港 | 当時のNo.1ホテル |
現在の飛行機 | 現在のムカ空港 | 現在のホテル |
(蓬城 新)
同じ様な時期に私もこのサラワク州を仕事で廻ってたので、大変懐かしく読ませて頂きました。
当初はサンダカンを中心とするエビの開発輸入だったのですが,サラワク州ならもっと経済的な価格で海老が手に入るのではと思いついて出かけたものです。
結果的に、かの地は汽水域の小さな剥きエビぐらいしか資源的に見込めないのでギブアップ、クチン シブサリケイあたりを探し回った記憶が有りますが、いわゆる商業施設も少なくクチンのホリデーインに入って一息ついた様な記憶が残っています。
飛行機はフォッカーとかいう機材で、座席に座ると両翼についたエンジンが高い位置に有った様な・・・・東マレイシアで機内から見るキナバル山の景色が大好きでした。
やまちゃん、コメントありがとうございます。
取引相手はやはり中国系でしたか? それともマレー系でした?
取引相手は中国系でした。
インドネシアも含めて、エビの加工業の大半が中国系だった記憶が有ります。
サラワクでは、海と川の区別がつかないほどに濁った水で、まるで大雨の洪水の後の様な情景で
高度差が無い為か流れもなく、今年日本各地で大雨による堤防決壊で水浸しになった情景と同じような景色が拡がっていたのが印象的でした。
やはりね。商売については、マレー系より中国系の人の方がはしっこい感じがします。何せ、包丁一本持って世界中のどこにでも行って強く生き抜いていますから。