歴史的背景
松阪城は天正16年(1588)、豊臣秀吉により南伊勢約12万石を与えられた蒲生氏郷が築いた平山城である。
標高約38mの独立丘陵「四五百森(よいほのもり)」を削り、わずか3年ほどで完成させたと言われる。
氏郷は当初、伊勢湾沿いの松ヶ島城に入ったが、城下町の発展性や防御性を考え、内陸の四五百森に新たな城と城下町を計画する。ここから松阪は、伊勢国南部を統括する拠点都市として整備されていった。
紀州藩
氏郷の後は服部一忠、古田重勝らが城主となり、江戸初期には松坂藩の居城に。その後、紀州徳川家の南伊勢支配を統括する支城となり、城代が置かれた。
明治期の失火や破却で建物は失われ、現在は石垣や曲輪が残る城跡公園(松阪公園)として整備されている。平成23年に国指定史跡、日本100名城にも選定されている。
特徴(縄張・構造)
松阪城は、山頂部から段々に曲輪を配置する「梯郭式」の平山城である。本丸・二の丸・隠居丸などが階段状に連なり、北側には阪内川が流れて天然の堀の役割を果たしている。
強固な防御動線(枡形構造)
大手口・搦手口ともに、門を入ると高い石垣に囲まれた枡形空間があり、そこから二度三度と折れ曲がりながら進む構造になっている。搦手側から天守台へ向かうルートでは、枡形が四度も続き、直進を許さない徹底した防御設計が体感できる。
天守と本丸
天守は連結式望楼型3重5階だったとされ、現在は天守台と本丸の石垣が残る。建物は残っていないものの、天守台に立つと、城下町の骨格と氏郷の都市構想を俯瞰できる。
石垣と石工技術
松阪城は「建物の城」ではなく、完全に「石垣の城」として見ると面白いかもしれない。
穴太衆
氏郷は近江から石垣のプロ集団「穴太衆」を呼び寄せたと伝わっている。これにより、自然石を活かした豪壮な石垣が築かれ、現在も城のシンボルとなっている。
野面積み
築城当初の石垣は、自然石をほぼ加工せず積み上げる「野面積み」。石と石の間に隙間があり、水はけが良く、崩れにくいのが特徴。天守台や本丸付近で、この素朴で力強い積み方がよく見られる。
打込み接ぎ・算木積み
江戸期の修復では、表面をノミで荒削りした石を用いる「打ち込み接ぎ」、隅部に長方形の石を長短交互に積む「算木積み」が採用された。二の丸や隠居丸の石垣では、野面積みとの「時代差」が一目でわかり、石垣の変遷を観察するのに最適である。
石材の再利用
築城には膨大な石材が必要だったため、周辺の寺社や古墳からも石が集められた。その中には古墳時代の石棺の蓋も含まれており、今も天守台などで確認できる。「墓の蓋が城を支える」という、長い歴史の流れを感じられるポイントである。
文化的背景
松阪は国学者・本居宣長の故郷で、城の近くには本居宣長記念館や旧宅「鈴屋」がある。城跡とセットで歩くと、「武家の城」と「学問・言葉の町」という二重の顔が見えてくる。
城下町と豪商のまち松阪
氏郷は城と同時に町割りも行い、伊勢街道沿いに商業都市としての松阪を育てた。のちに「豪商のまち」として栄え、商家の町並みや旧家が今も残っている。城跡から城下を見下ろすと、戦国から近世の「城と経済」の関係を想像しやすいかもしれない。
文学の舞台
梶井基次郎の短編『城のある町にて』の舞台でもあり、二の丸跡には文学碑が建てられている。
季節感
春は桜、初夏から夏は濃い緑、秋は銀杏や紅葉、冬は石垣の陰影が際立つ。石垣と樹木のコントラストが強いので、写真を撮るなら斜光の時間帯(朝・夕方)が特におすすめらしい。
歩き方のおすすめルート
1. 大手口から入る: 枡形構造と石垣の高さを意識しながら進む。
2. 二の丸〜隠居丸: 打込み接ぎ・算木積みを観察しつつ、曲輪の配置を体感。
3. 本丸・天守台: 野面積みの石垣をじっくり見てから、天守台上で城下町の眺望。
4. 下城後に城下町散策、本居宣長関連施設や豪商の町並みへ。
体感すべきポイント
・「まっすぐ行けない」動線:天守台までの折れ曲がりの多さを、身体で感じてみる。
・ 石の表情の違い:自然石か、加工石か、隅角部の積み方はどうか。
・視界の抜け方:どこから城下が見えるように設計されているか。
・城と城下町を都市デザインとして見ると面白いかもしれない。
・古墳時代の石棺が戦国の築城に使われたことは、大和郡山城では地蔵石が使われていたことと類似して面白い。