伊勢街道巡り旅 小耳情報12.~村山龍平記念館

1時間半ほどかけて田丸城の見学を終えた後、すぐ近くにある村山龍平記念館に立ち寄った。ここは、玉城町出身の実業家・新聞人であり朝日新聞社の創業者である村山龍平(1850–1933)の業績やゆかりの資料を伝える郷土資料館である。
村山龍平の生涯と業績(朝日新聞創業、新聞事業の発展) に関する資料などが展示されており、地域の歴史・文化の紹介・保存や社会教育の拠点として活用されている。
 村山龍平は1850年5月14日(嘉永3年4月3日)に伊勢国田丸(現・三重県度会郡玉城町)に生まれ、1933年(昭和8年)11月24日に84歳で亡くなった日本の新聞経営者  (Kankomie) です。朝日新聞社社主・社長、政治家(衆議院議員、貴族院議員)として活躍し、玉城町名誉町民第1号となった。号は「香雪(こうせつ)」。

生い立ちと青年期
実家は紀州藩旧田丸領に仕えた旧士族で、幼少時代は腕白なガキ大将で、喧嘩に負けそうになると小刀を振り回し、両親や近所の人を困らせていた。しかし、1863年冬に母が重病になってからは改心し、冷静沈着な少年に変わった。1867年からは田丸城に勤番している。

実業家としての活躍
明治4年(1871年)に一家を挙げて大阪に移住し、父とともに西洋雑貨商「村山屋」(後に「田丸屋」→「玉泉舎」)を営んだ 。明治5年に西洋雑貨を商う「田丸屋」を開業し、数年後には店を大きくして「玉泉舎」と改めた。明治11年(1878)には大阪商法会議所(大阪商工会議所の前身)の最初の議員に選ばれている。
朝日新聞の創刊
西南の役を境に世情も落ち着き始め、明治12年(1879)1月、龍平29歳の時に朝日新聞を創刊 した。国会開設を機会に新聞の大衆化と大量生産に努め、海外通信網の確立強化に先鞭をつけて他紙の追随を許さず、『朝日新聞』は世界的大新聞としての地位を確保した。
文化人としての活動
美術にも深い関心を寄せ、岡倉天心達の主宰する美術雑誌『國華』の経営も引き受けている。開国後、価値ある美術品が海外へと流出することを食い止めたいという思いから、刀剣に始まり、仏画、墨蹟、古筆などの名品を収集した。この収集品は現在、神戸の香雪美術館に所蔵されている。
茶道への傾倒
藪内流の茶道を修め、当初は藪内節庵に師事し、やがて竹翠(藪内家10代)、竹窓(同11代)について研鑽、「玄庵」の号を許された。明治35年(1902)には朝日新聞の村山龍平、上野理一、藤田組の藤田伝三郎が発起人となり、実業界を中心とした茶の湯の会「十八会」を結成した。昭和8年(1933)に84歳で没するにあたり、竹窓家元から免許皆伝の証が贈られ、村山紹龍の名を得ている。
スポーツ振興への貢献
村山龍平は日本の野球振興にも大きく貢献した。全国高等学校野球選手権大会(夏の甲子園)の創設に尽力し、2015年には野球殿堂入りを果たしている
故郷への貢献
郷土愛にあふれた人物でもあり、故郷に多くの寄付を行い、田丸城の町有化などの原資を提供した 。現在、玉城町には村山龍平を顕彰する村山龍平記念館のほかに香雪園という公園がある。
香雪園

村山龍平生誕の地に昭和9年(1934)に記念碑を建て、村山家の援助を得て小公園として整備された。1937年には隣接地に三重県初の50mプールが落成し、村山家から寄贈された。このプールは現在も「玉城町営プール」として利用されている。

叙勲
1915年(大正4年) – 勲三等瑞宝章
1928年(昭和3年) – 勲二等瑞宝章
1933年(昭和8年)没後 – 勲一等瑞宝章、従四位を追贈

村山龍平は、新聞事業の発展のみならず、文化・スポーツ振興、社会事業に多大な貢献をした明治・大正・昭和初期を代表する実業家・文化人として、現在も高く評価されている。

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